国会開設までの道のり

自由民権運動が各地に広まり、言論により政府への批判が高まる中、各地の代表者が集まり国会期成同盟(こっかいきせいどうめい)を結成しました(1880年)
国会期成同盟は、政府に対して国会の開設を求める要求をつきつけました。
これを受けて国会開設時期や憲法の方針をめぐり、明治政府内は2つに分かれて争いました。
伊藤博文や岩倉具視達のドイツ型憲法を手本にしようとする考えがまとまり、政府は国民に対して国会開設の約束をします。
明治天皇の名前で出されたこの約束を国会開設の勅諭(ちょくゆ)と言います。
10年後に国会を開設すると約束し、政府はしっかり1890年に国会を開設させました。













律令制度から内閣制度へ





奈良時代に始まった日本の律令制度。
その核となったものは太政官(だじょうかん)制です。
天皇の下に太政官を置き、太政大臣、左大臣、右大臣を中心に政治を行います。

太政官制により古くから天皇を中心に政治を行ってきた日本
時に摂関政治や武家政権などでその制度が機能していない時期もありました。
しかし江戸幕府が倒れたことにより、再度太政官制が重要視されました。
大日本帝国憲法が制定され内閣制度が出来るまで、政治を執り行う機関が必要になったからです。
太政大臣には三条実美(さんじょうさねとみ)が就きました。
奈良時代に成立した太政官制と明治時代の太政官制とでは、仕組みが変わっている部分もありますが、ここでは説明を省きます。
幕府崩壊から1885年の内閣制度の誕生まで、太政官制の下日本の政治は執り行われてきました。
1889年に大日本帝国憲法が制定され、内閣制度が完成しました。
それ以降内閣総理大臣を中心とした内閣が、政治を執り行うことになります。
こうして太政官制は日本の歴史から姿を消すことになります。
初めての内閣総理大臣に選ばれたのは伊藤博文(いとうひろぶみ)です。


考え方を同じくする議員達のグループを、政党と言います。
国会では多数決で議決されるため、議員数が多い政党ほど有利になります。
そのため来るべき国会開設に備え、政党を結成する動きが出てきたのです。
板垣退助は自由党を結成し、大隈重信は立憲改進党(りっけんかいしんとう)を結成しました。
大日本帝国憲法
1889年、大日本帝国憲法が完成します。
大日本帝国憲法は天皇が国民に与える形をとっています。
大日本帝国憲法では天皇の権限は非常に大きなものでした。
天皇は国会に相談しなくても外国と戦争を始めることが出来ます。
外国と条約を結ぶことも天皇の権限です。
これらを行うことに国会の承認などは必要なかったのです。
とは言え、内閣の助言のもと天皇が政治を行うとされ、予算や法案の成立には国会の同意を必要としたことから、天皇の権限も制限付きでした。
つまり、大日本帝国憲法の誕生をもって、日本は君主の権限を法で制限する立憲君主制の国家となったのです。
そして国民は天皇の臣民(しんみん)であるとされました。
臣民とは、君主に支配される者という意味です。
大日本帝国憲法下で、国民の自由とはあくまでも制限付きの自由だったのです。
※国民は法律の範囲内という制限付きで言論、集会・結社の自由などが認められました。
それでも近代的な憲法を作った日本は、欧米諸国から近代国家として認められるための歴史的な第一歩を踏み出したのです。
日本が目指す不平等条約の改正に一歩近づいたのです。
大日本帝国憲法が正式に発布(はっぷ)されると、以後日本は「大日本帝国」と呼ばれることもありました。
帝国議会(ていこくぎかい)
















このような制限付きの選挙を制限選挙(せいげんせんきょ)と呼びます。
対して現代のように、基準の年齢に達した日本人なら誰にでも選挙権がある選挙を普通選挙(ふつうせんきょ)と呼びます。


