大日本帝国憲法と帝国議会
国会開設までの道のり
こんにちは。
今日は日本国家として初の国会開設までの道のりと、大日本帝国憲法の制定までを見ていきましょう。
自由民権運動が各地に広まり、言論により政府への批判が高まる中、各地の代表者が集まり国会期成同盟(こっかいきせいどうめい)を結成しました(1880年)
国会期成同盟は、政府に対して国会の開設を求める要求をつきつけました。
これを受けて国会開設時期や憲法の方針をめぐり、明治政府内は2つに分かれて争いました。
伊藤博文や岩倉具視達のドイツ型憲法を手本にしようとする考えがまとまり、政府は国民に対して国会開設の約束をします。
明治天皇の名前で出されたこの約束を国会開設の勅諭(ちょくゆ)と言います。
10年後に国会を開設すると約束し、政府はしっかり1890年に国会を開設させました。
10年と言うと長い気もしますが、準備しなければならないことは山ほどあります。
ここから政治家たちは奔走することになります。
例えば、どのような準備をしたのですか?
まずは、憲法の準備です。日本が目指すものは立憲君主制です。
立憲君主制は君主(天皇)を中心とし、法により国を統治することです。
反対の意味で専制君主制があったね。
国王が全ての権力を握る体制が専制君主制(絶対王政)ですね。
立憲君主制は国王(君主、天皇)は存在するが、法でその権限を制限し、法により国家を統治するのです。
ちょっと難しいです。
日本は天皇を中心にまとまっている国家です。
しかし、天皇に全権限を与えればそれは絶対王政(専制君主)です。
よって、法によって天皇の権限に制限をかけます。
法により統治するとは?
適正な手続きを踏んで選ばれた代表者により運営する国会で、政治方針を決めていくことです。
適正な手続き、それが法にのっとると言うことです。
そうか。それで憲法が必要になるんですね。
ただし、憲法と言っても実にいろいろなスタイルがあります。
当時の日本が目指す国家統治スタイルには、ドイツ型憲法が一番近かったのです。
ビスマルク憲法か!
憲法とは、国の法律を作るときの決まり事や国会の決まり事を定めるものです。
憲法がなければ、法律で人を裁くことも、人に権利を与えることも出来ないのです。
それだけ重要なものと思ってください。
律令制度から内閣制度へ
太政官制を覚えていますか?
えっと、唐から学んだ律令制度で確か教わりました。
天皇の下に太政官がありましたね。
その中に太政大臣や左大臣右大臣などがありました。
おお!なつかしい!!
太政大臣が現在の総理大臣だと思ってもらえれば良いでしょう。
この太政官制から1885年に内閣制へ移行します。
奈良時代に始まった日本の律令制度。
その核となったものは太政官(だじょうかん)制です。
天皇の下に太政官を置き、太政大臣、左大臣、右大臣を中心に政治を行います。
太政官制により古くから天皇を中心に政治を行ってきた日本
時に摂関政治や武家政権などでその制度が機能していない時期もありました。
しかし江戸幕府が倒れたことにより、再度太政官制が重要視されました。
大日本帝国憲法が制定され内閣制度が出来るまで、政治を執り行う機関が必要になったからです。
太政大臣には三条実美(さんじょうさねとみ)が就きました。
奈良時代に成立した太政官制と明治時代の太政官制とでは、仕組みが変わっている部分もありますが、ここでは説明を省きます。
幕府崩壊から1885年の内閣制度の誕生まで、太政官制の下日本の政治は執り行われてきました。
1889年に大日本帝国憲法が制定され、内閣制度が完成しました。
それ以降内閣総理大臣を中心とした内閣が、政治を執り行うことになります。
こうして太政官制は日本の歴史から姿を消すことになります。
初めての内閣総理大臣に選ばれたのは伊藤博文(いとうひろぶみ)です。
国会開設に備えるため、政党を作る者が現れました。
せいとう?
考え方を同じくする議員達のグループを、政党と言います。
国会では多数決で議決されるため、議員数が多い政党ほど有利になります。
そのため来るべき国会開設に備え、政党を結成する動きが出てきたのです。
板垣退助は自由党を結成し、大隈重信は立憲改進党(りっけんかいしんとう)を結成しました。
大日本帝国憲法
1889年、大日本帝国憲法が完成します。
大日本帝国憲法は天皇が国民に与える形をとっています。
大日本帝国憲法では天皇の権限は非常に大きなものでした。
天皇は国会に相談しなくても外国と戦争を始めることが出来ます。
外国と条約を結ぶことも天皇の権限です。
これらを行うことに国会の承認などは必要なかったのです。
とは言え、内閣の助言のもと天皇が政治を行うとされ、予算や法案の成立には国会の同意を必要としたことから、天皇の権限も制限付きでした。
つまり、大日本帝国憲法の誕生をもって、日本は君主の権限を法で制限する立憲君主制の国家となったのです。
そして国民は天皇の臣民(しんみん)であるとされました。
臣民とは、君主に支配される者という意味です。
大日本帝国憲法下で、国民の自由とはあくまでも制限付きの自由だったのです。
※国民は法律の範囲内という制限付きで言論、集会・結社の自由などが認められました。
それでも近代的な憲法を作った日本は、欧米諸国から近代国家として認められるための歴史的な第一歩を踏み出したのです。
日本が目指す不平等条約の改正に一歩近づいたのです。
大日本帝国憲法が正式に発布(はっぷ)されると、以後日本は「大日本帝国」と呼ばれることもありました。
帝国議会(ていこくぎかい)
1890年、いよいよ国会が開かれる時が来ました。
当時の国会を帝国議会と呼びます。
なんか強そう。
帝国議会の開催に先駆け、国会議員を選ぶ選挙が行われました。
日本で初めて選挙が行われたんですね。
議会の議院は衆議院(しゅうぎいん)と貴族院(きぞくいん)の二院制です。
参議院(さんぎいん)じゃないんですね。
衆議院議員は選挙で選ばれましたが、貴族院議員は皇族や華族(かぞく)などの有力者から天皇が任命する形を取っていました。
う~ん、なんかまだまだ不平等な感じがする。
さらに衆議院議員に立候補出来る人は、「年間で国に15円以上の税金を納める満25歳以上の男子」限定でした。
15円!?安!
いえいえ、当時と今ではお金の価値が全く違います。
恐らく当時の15円は現代の60~80万円ほどと言われます。
全然価値が違うのですね!?
しかも現代のように職業が安定している時代ではありません。
それほどの金額を年間納められる人は、かなり限定されていました。
しかも男子だけなんですね。
よって、実際に選挙権を持てたのは、全人口の約1%(約45万人)だけだったのです。
近代化とは言っても、まだまだ全員が平等とは程遠いんだね。
このような制限付きの選挙を制限選挙(せいげんせんきょ)と呼びます。
対して現代のように、基準の年齢に達した日本人なら誰にでも選挙権がある選挙を普通選挙(ふつうせんきょ)と呼びます。
1867年の大政奉還(たいせいほうかん)から23年でこんなに国の仕組みが変わるんですね。
本当にすごいことだと思います。
当時の人達は変化に付いて行くのに大変だったろうな。
近代国家の入り口に立った日本の勢いは止まりません。
ついに外国との戦争に突入していきます。
それでは、また次回!