自由民権運動と士族の反乱
自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)
征韓論(せいかんろん)が否定され、政府を去った板垣退助や江藤新平は民選議院設立の建白書を政府に提出しました。
み、みんせん!?
民選議院設立の建白書(みんせんぎいんせつりつのけんぱくしょ)です。
難しそう。何ですかそれは?
「士族や平民に至るまで広く参政権を与え、議会を開設しろ」と言う訴えです。
参政権とは、政治に参加する権利です。
現在日本では満18歳になると選挙権が与えられます。
これも参政権のひとつです。
そうか。討幕から明治政府が出来たばかりで、政治に参加する権利なんて一般の人にはなかったんですね。
征韓論の争いは政府内の人間同士が争い、最終的に天皇の一声で終結しました。
欧米を見習い、民主主義を目指す日本にとって、その解決方法はおかしいだろうと言うのが板垣たちの意見です。
それは確かにそうだね。
日本の行く末のことを国民抜きに決定してしまうのは昔に逆戻りだもんね。
これがきっかけで、国民が政治に参加する権利の確立を目指す自由民権運動が展開して行くことになります。
西南戦争
征韓論を否定され、西郷隆盛も政府を去っていました。
西郷は故郷鹿児島に帰り、のんびりと農作業をしていました。
え!?西郷隆盛は政府に対して反乱を起こしたんじゃないの!?
西郷隆盛が引き起こしたと考えられていますが、ちょっと状況は違います。
西郷は困窮を極める士族たちに、自ら生活する道を与えるために農業を学び、その術を伝えようとしました。
ちょっと思っていたのと違いますね
西郷は国の行く末を案じていました。
うかつな行動で国内を混乱させることは、日本にとって何も生みださないことはよく理解していました。
でも西南戦争を起こした人でしょ?
起こさざるを得ない状況になってしまったのです。
西郷隆盛の人柄に魅かれる人間は大勢いました。
実際西郷隆盛が政府を去るときに、西郷を慕って多くの軍人や役人が政府を去っていきました。
多くの者は西郷に期待しました。
大久保利通らの実質専制政治とも言える政治。
そして誇りと生きる術を奪われた多くの士族たち。
きっと西郷は士族たちの希望として立ち上がり、明治政府に反旗を翻してくれるだろうと期待したのです。
しかし、当の西郷にはそのような気持ちは全くありません。
士族の反乱の中で先陣ともいえる佐賀の乱(1874年)が起こった時も、江藤新平らは西郷の奮起に期待しました。
西郷が立ち上がれば全国の士族が反乱に立ち上がるとにらんだのです。
しかし、西郷は立ち上がりませんでした。
国家の内乱は何も生みださないことを知っていたからです。
ところが、明治政府は西郷が存在する限り、士族の反乱は収まらないと判断しました。
そのため政府は西郷を暗殺する計画を練り、鹿児島の軍備弱体化を狙い、裏工作をしかけたりしました。
各地の士族も政府の行動に怒りを爆発させます。
こうして西郷は追い詰められていきます。
本人は戦いを望まなくても、政府からは反乱の首謀者にされ、もはや弁解の余地もありませんでした。
西郷は戦わざるを得ない状況に立たされたのです。
そして1877年とうとう西郷隆盛は鹿児島から挙兵したのです。
最終的に4万人もの軍勢になった西郷の軍
各地の士族は西郷の挙兵に奮起したのです。
こうして発生したのが西南戦争(せいなんせんそう)です。
そ、そんなことって・・・。
本人は静かに暮らしたかっただけだったでしょうに・・・。
人気者の辛いところでもあります。
影響力の強い人間の宿命と言ったところでしょうか。
本当に士族にとって、西郷さんは最後の希望だったんですね。
士族は戊辰戦争を戦い抜いた戦闘のプロ達です。
平民の集まりのド素人政府軍には負けないと自負していました。
しかし、政府の最新鋭の武器には到底敵わなかったのです。
気の毒だよ。西郷さん。
西南戦争は日本歴史上、最後の内戦です。
そして武士の姿を国内で最後に確認できた戦いでもあったのです。
ラストサムライです。
気の毒だけど、最期はもしかしたら嬉しかったかも知れないですね、西郷さん。
西南戦争で散っていった西郷隆盛。
今でも多くの人から愛され続けている人です。
東京千代田区にある靖国(やすくに)神社
ここは明治維新から日本国家発展のために命を捧げてきた英霊達を祀っています。
西郷隆盛も幕末から明治政府樹立まで多くの功労を残した人でした。
しかし、西南戦争で彼は国家の反逆者にされてしまいました。
そのため西郷隆盛は靖国神社に祀られていません。
代わりに鹿児島には南洲(なんしゅう)神社が建立され、西郷はそこに祀られています。
西南戦争を共に戦った士族たちと共に、日々、のどかに桜島を眺めているのでないでしょうか。
西南戦争翌年、大久保利通は士族により暗殺されます。
木戸孝允(きどたかよし)は病気で亡くなりました。
維新三傑(いしんさんけつ)と呼ばれた大久保、木戸、西郷。
こうしてひとつの時代が幕を閉じたのです。
自由民権運動の高まり
西南戦争以後、武力ではなく言論により世の中を変えていこうとする動きが出てきました。
特に薩摩や長州出身者で固められた明治政府(藩閥政府)に対して、言論による批判が高まりました。
その言論によって、世の中を変えていこうとする動きが自由民権運動なんですね。
こうした運動が高まる中、政府内でもいよいよ国会を作り、憲法を制定するべきだと動きが出てきます。
国会の話し合いで政治を決める。そして憲法で統治する。
現代日本にかなり近づいてきましたね。
しかし、政府内部では憲法の内容や国会の開設時期について対立が見られました。
国王の力を制限し、議会が政治の中心となるイギリスの憲法を推す大隈重信(おおくましげのぶ)
天皇(皇帝)を中心に強い力でまとめていくドイツ型のビスマルク憲法を推す伊藤博文(いとうひろぶみ)
さらに大隈は国会の早期開設を主張し、伊藤はじっくり憲法と国会のあり方を勉強してから国会を開設しようと言う立場に立ち、対立を深めました。
結局は大隈が政府を去ることになり、伊藤博文の案で国会開設と憲法の原案作りの準備に入って行きました。
10年後(1890年)に国会を開設する約束を国民と約束し、自由民権運動の沈静化を図りました。
これを国会開設の勅諭(こっかいかいせつのちょくゆ)と言います。
この国会開設の勅諭は、言論が世の中を動かした画期的な出来事でした。
これまでだったら武力で国を動かしていたもんね。
自由民権運動も政府により弾圧されたりしましたが、それ以上に国民の情熱が勝ったのですね。
10年て長い気もしますけど、きっと大変な時間だったのでしょうね。
[talk name=””]ドイツ憲法を手本に大日本帝国憲法が公布されるのが1885年。
ここまで5年です。
そして国会の仕組みを学び、実際に組織化する。
相当な努力であったと思います。[/talk]
教科書だと文字ばかりでいまいちわかりませんでしたけど、岩倉使節団があって、征韓論派と対立。
敗れた征韓論派が士族の反乱を起こしたり、自由民権運動を展開して。
それが憲法制定と国会開設を政府に約束させた。
俺にも理解できたぞ!
次回は、国会開設までの道のり、そして大日本帝国憲法の制定について見ていきましょう!それではまた。