日本、帝国主義へ!
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欧米列強と帝国主義
今日は世界の動きとその中の日本を見ていきます。
いよいよ日本が世界に飛び出すのか。
本当にここまでいろいろなことがありましたね。
どのようにして日本が近代化を図ってきたか。
それはこれまでの話で理解出来たと思います。
幕末から大日本帝国憲法の制定まで、よくわかりました。
いろんな人が出てきてゴチャゴチャしてるから苦手だったけど。
流れをつかんだぞ。
近代化を果たした日本。
今日は、世界の中でどのようにして日本が近代国家として認められていったのかを見ていきますよ。
よろしくお願いします。
より理解しやすくするために、少し時間をさかのぼってお話します。
混乱しないように注意して下さい。
時は19世紀後半、1871年のことです。
岩倉使節団が欧米諸国に出発した年のことです。
大日本帝国憲法が出来た年(1889年)から18年前の話ですね。
当時日本は明治新政府が発足したばかりでした。
「不平等条約の改正」
これこそが明治新政府の最も重要な課題でした。
岩倉使節団は不平等条約を改正しようとしたんだよね。
でも結局ダメだったんだ。
不平等を平等にする。
それは対等の力があってこそ成せるのです。
欧米の技術もまだまともに手に入れたとは言えない。
まして近代国家の骨格ともいえる憲法すら持たない。
まともに日本は、欧米諸国から相手にはしてもらえませんでした。
そこでドイツのビスマルク首相に会ったんですよね。
そして外国と対等になりたいなら国を強くしなければならないと言われました。
そうですね。
そして岩倉使節団は帰国し、富国強兵と殖産興業政策に力をいれるべきと天皇や政府の人間たちに訴えます。
でも、朝鮮半島を力で征服しようとする動きが政府の中にはあった。
征韓論(せいかんろん)だ!
しかし、まずは国力を充実すべきだとし、征韓論派たちは負け、政府から去っていきます。
西郷隆盛や板垣退助です。
そして日本最後の内戦、西南戦争が始まったんですね。
そうです。その内戦が終結し、いよいよ日本はひとつとなり近代化を目指していくことになります。
それが前回お話しした国会開設と大日本帝国憲法の制定です。
憲法制定でいよいよ近代国家の仲間入りですね。
さて、今の話の流れで岩倉使節団(1871年)のところまで話しを戻しましょう。
明治政府内では、近代化を推し進める一方、朝鮮半島の重要性が主張されました。
清と朝鮮は長らく朝貢(ちょうこう)関係にありました。
漢の時代から中国周辺諸国の支配者たちは、中国皇帝と朝貢関係にありました。
朝貢とは中国の皇帝に礼を尽くし、貢物(みつぎもの)を贈ることです。
皇帝に臣下の礼を尽くし、皇帝からその支配者たる地位を認めてもらう。
中国は古くから文明の発達が早く、相当な国力がありました。
その中国に認めてもらうことは周辺諸国の支配者たちの念願でもありました。
日本も奴国(なのくに)や邪馬台国(やまたいこく)などが中国と朝貢関係にありました。
日本は朝鮮に対し、西洋への鎖国をやめさせることを進めました。
つまり「開国せよ」と言うことです。
開国しないと遅れを取るからと言うことですか?
日本には気がかりな存在がありました。
ロシアです。
ロシアが南下して来れば日本にとって脅威です。
欧米諸国がアジア進出を試みる中、当然ロシアもアジアを目指します。
やがて日本へ進出してくることになれば足掛かりになるのは朝鮮半島です。
そこをロシアに占領されてしまっては日本にとっては一大事でした。
日本は朝鮮を近代国家化させ、外国に対抗できる力をつけさせることでロシアの脅威を防ごうと考えました。
そこで明治政府は天皇の名の下に再三に渡り朝鮮へ開国を進めました。
ところが朝鮮は断固として拒否します。
朝鮮にとって臣下の礼を尽くすのは、朝貢関係にある清の皇帝のみです。
日本の天皇に従う気はありませんでした。
さらに当時の日本は近代化を推し進め、西洋化を図っていました。
自国の文化を捨て、西洋化を図る日本。
自国の文化を大事にする朝鮮からすれば理解できない行動だったのです。
そこで明治政府が取った行動は、朝鮮が朝貢する清と対等の条約を結ぶことです。
これを日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)(1871年)と言います。
清と結んだの?朝鮮じゃなくて?
清の皇帝と日本の皇帝(天皇)を対等の関係にさせることで、朝鮮と交渉しようとしたのです。
なるほど。
しかし、結局交渉は難航してしまいました。
そこで明治政府内に出てきた意見が征韓論(せいかんろん)なのです。
交渉が上手く進まないから、武力で朝鮮を開国させようとしたんですね。
朝鮮半島は、日本にとってとても重要な位置にあるんですね。
しかし帰国した岩倉使節団の大久保利通(おおくぼとしみち)らに反対され、西郷や板垣が政府を去ったことは先に述べた通りです。
その後も政府は朝鮮へ開国を要求しました。
そこで政府は軍艦を朝鮮半島に近づけ、朝鮮に圧力をかけました。
そこで武力衝突が起きます。
これを江華島(こうかとう)事件(1875年)と言います。
この江華島事件を口実に、翌年日本は朝鮮と条約を結び、力で朝鮮を開国させました。
これが日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)です。
条約の内容は、朝鮮側に領事裁判権を認めさせるなど、不平等な内容でした。
け、結局征韓論の人達と同じことしてるのでは!?
しかも自分たちが苦しんでいる不平等条約をそのまま朝鮮に結ばせたんですね。
結局は力なのです。力だけが物を言う時代です。
それがビスマルクの言う「ただ強くあれ、そうすれば諸国も君を認めるであろう」という理論です。
それでは、戦争が起こるのも必然的な気がしてしまいます。
欧米諸国はアジアに先駆けその力を手にしていました。
そのために力のないアジアに進出してきたのです。
欧米諸国は自由にアジアやアフリカの土地を支配下に置いていきました。
植民地政策だ。
自国以外の地域を管理下に置くことを「植民地化」と言います。
先住民がいる場合は、その者達も支配下に置き、自国の法律に従わせたりします。
欧米諸国は植民地で安く原料を仕入れ、自国の技術で製品を作りその植民地で売り裁き利益を得ていました。
こうして軍事力のある国家が、自国の利益を上げるために武力により他の地域を侵略支配することを帝国主義(ていこくしゅぎ)と言います。
日清戦争(にっしんせんそう)
西ヨーロッパを中心に産業革命が始まり、資本主義が発達しました。
資本主義経済は利益がさらに利益を生みます。
しかしそのためには多くの原料供給地、そして市場(しじょう)が必要です。
そのために欧米諸国が競い合い奪い合ったのが植民地です。
植民地は主にアフリカやアジアでした。
世界は帝国主義の名の下、欧米列強によって分割されていったのです。
この欧米列強とは主にイギリス、アメリカ、フランス、ドイツそしてロシアです。
ロシアが南下してアジア進出を目論むのは目に見えていました。
そのため日本は朝鮮半島に固執したのです。
朝鮮を近代国家化させ、ロシアの日本への進出を朝鮮半島で阻止する。
それが明治政府の狙いでした。
そしてこの朝鮮をめぐる動きが、大きな火種を生みます。
それが清との争い日清戦争(にっしんせんそう)です。
清と戦争?
清は朝鮮を植民地化しようとしていました。
日本と清により翻弄(ほんろう)される朝鮮。
朝鮮では清や日本の勢力を朝鮮半島から追い出そうとする大きな反乱が置きました。
これを甲午(こうご)農民戦争と言います。
それがきっかけで戦争が起きてしまったんですね。
そしてもうひとつ。
ロシアのシベリア鉄道が朝鮮半島付近まで延びてきていたことも原因です。
ヨーロッパを横断できるロシアの鉄道。
それがシベリア鉄道です。
ロシアは広大な国です。
広大ゆえ、多くの国と隣接し、いついかなる時もまとまった軍事力を整える必要があります。
シベリア鉄道は短時間で大量の兵を輸送出来る手段でした。
そのシベリア鉄道が朝鮮半島付近まで延びてきていたことは日本にとって脅威的でした。
日本はもはや悠長なことを言っていられませんでした。
ロシアが南下してくる前に朝鮮半島を何とかしなけらばならない。
それが日本の出した答えでした。
征韓論うんぬんではなく、結局日本は朝鮮を支配下に置かなければならない状況になりつつあったと言えるでしょう。
ロシア、日本、清。
3つの国ににらまれてしまったんだな朝鮮。
こうして日本は朝鮮への武力介入を決断し、それに対抗する清との間で日清戦争(1894年)が勃発しました。
条約改正の道
話を日清戦争開戦直前まで戻します。
明治維新から日本の近代化。
この頃の歴史を読み解くキーワードは不平等条約改正です。
1871年の岩倉使節団では成せなかった。
それでもアメリカとは条約改正の合意にまでこぎつけたことがありました。
1878年のことです。
え!そうなの!?知らなかった。
関税自主権の回復のみでしたけどね。
しかし、イギリスなどの反対に合い実現できませんでした。
どこかがOKでも、どこかがダメなんですね。
不平等条約の改正には絶対的な力を手に入れる必要があるんです。
日本が欧米と対等に肩を並べることは簡単なことではないんですね。
外交って大変なんですね。
しかし、日本の地道な努力はやがて世界の流れを変えていきます。
それまで植民地としてしか考えられていなかった東アジア。
しかし、日本の存在感が日増しに強くなっていくのです。
国会開設と大日本帝国憲法ですね!
そして何よりもロシアの存在が大きいです。
ロシアの南下政策。
インドや東南アジアに植民地を持つイギリスにとっても厄介なことです。
ロシアに備えるためイギリスが目をつけたもの。
それが日本でした。
1886年イギリス船ノルマントン号が和歌山県沖で沈没し、日本人乗客全員が水死した事件が起こりました。
本来なら船長には厳罰が下されます。
しかし、イギリス領事館はイギリス人船長に軽い罰を与えただけでした。
領事裁判権を相手国にだけ認める不平等条約。
この事件をきっかけに、不平等条約を改正すべきと言う強い日本国民の意見(世論)が高まりました。
これがノルマントン号事件です。
日本国民は怒りに沸きました。
その怒りの中、富国強兵と殖産興業により日本は国力高めていきました。
そして1889年の大日本帝国憲法発布により、近代国家の仲間入りを果たします。
こうした日本の動きに対して、イギリスの日本に対する関心は大いに高まりました。
日本をただの島国ではないと睨んだイギリスは、日本を利用しロシアの脅威に備えようと考え始めました。
朝鮮半島に南下するロシアを日本とイギリスで挟む。
その日本とイギリスの利害が一致することになります。
このイギリスの思惑を逆手に利用したのが陸奥宗光(むつむねみつ)外相です。
イギリスは日本と手を組みたい。
ならば条件を呑んでもらいましょう。
それが不平等条約の改正です。
イギリスが日本に近づいたのは、まぎれもなく日本が近代国家として世界に認められた証拠です。
1894年、日英通商航海条約を(にちえいつうしょうこうかいじょうやく)を結び、領事裁判権の撤廃に成功しました。
これをきっかけに他の国々とも領事裁判権の撤廃に成功します。
関税自主権の回復までには至りませんでしたが、日本が目指す近代国家の仲間入りは、すぐそこまで迫っていました。
この後、いよいよ日清戦争の開戦です。
日本としてもイギリスと手を組んだことは非常に大きな一手でした。
ロシアの動きをけん制しながら朝鮮に進出出来るようになったからです。
ゆ、優秀すぎる政治家たち!!
幕末の志士たちが掲げた開国攘夷(かいこくじょうい)
その悲願がいよいよ達成される日が来たのです。