戦国大名の誕生



元々守護は、源頼朝が弟義経の逃亡を追跡するために全国に設置したものです。
これにより全国に御家人を配置することになります。
守護が国司に代わり、地頭が荘園領主の管理をするようになりました。
国が管理していたものが幕府の管理に移る。
すなわち朝廷の弱体化と幕府の権力拡大が図られました。
そこまでが鎌倉時代です。
室町時代になると、守護はさらに力をつけ始めます。
守護は荘園領主から厳しく年貢を取り立てます。
これら守護は次第に支配地を広げ力をつけていきます。
大きな力を持つ守護は、やがて室町幕府を圧倒する存在となっていきます。
それを守護大名と呼びます。








室町幕府の将軍から守護として任命され、力をつけていったものが守護大名です。
自分の力でのしあがり、領地を獲得していったものが戦国大名です。
ただし、武田家のように守護大名がそのまま戦国大名になったケースもあります。
各戦国大名は力をつけ、領土拡大しつつ、足利将軍家を助ける名目で、京に上る(のぼる)ことを目論みます。
京に上ることを上洛(じょうらく)と言います。
上洛を果たし、朝廷から官位をもらい、足利将軍家を助けることで全国に命令を下せるようになります。
実質的に天下を手中に収めることと同じくらいの権力を手にすることが出来るのです。
上洛を果たし天下を手中に収めること。
それが戦国大名たちの大きな野望でした。




種子島(たねがしま)
九州の南にある種子島(たねがしま)に中国船が到着しました。
そこにはポルトガル人が数名乗船しており、手に持っていたのが火縄銃(ひなわじゅう)です。
火薬に火縄を用いて点火する仕組みのため火縄銃と呼ばれました。
種子島の島主「種子島時堯(たねがしまときたか)」は、実際の射撃を目の当たりにし即決購入します。
その値段は1挺(ちょう)なんと1億円とも言われます。
それを2挺購入した種子島時堯は島の鍛冶師に1挺を預け量産に成功しました。
もう1挺は幕府の将軍「足利義春(よしはる)」に献上しました。
こうして火縄銃を量産させることに成功した種子島には、噂を聞き付け各地から多くの来訪者が集まりました。
そこには大阪の堺(さかい)の商人や、紀州の根来寺(ねごろじ)の者がいました。
彼らにより、火縄銃は瞬く間に全国に広がっていきました。
紀州の根来寺の僧兵たちや雑賀衆(さいかしゅう)と呼ばれる傭兵(ようへい)集団により、紀州は鉄砲戦術による武装化が進みました。
(※傭兵=雇われて兵として戦う者達)
事実、織田信長が紀州を攻めた際、相当苦戦を強いられています。
信長自身銃撃により負傷しています。
鉄砲を用いた戦術では、武田勝頼軍を壊滅的に追い込んだ織田信長の三段撃ちが有名です(長篠の戦い)
火縄銃は伝わった土地の名前を取り種子島(たねがしま)と呼ばれるようになります。









宗教改革






こうしたローマ教皇の働きかけに批判が起きます。
ドイツのマルティン・ルターは1517年に「95カ条の意見書」を出し免罪符販売に異議を唱えました。
「信仰は聖書の中にのみある」とし、信仰を聖書に帰すことを訴えます。
すなわちローマ教皇の権威に翻弄されることなく、「聖書の言葉のみを信仰せよ」と言うことです。
この動きに賛同し、日頃からの聖職者たちの堕落ぶりを見かねていた人達が、カトリック教会を離れていきます。
彼らは「カトリック教会に反抗する人」と言う意味で「プロテスタント」と呼ばれます。
ドイツで起きたこのプロテスタントの動きに呼応し、やがてカルヴァン主導の下、スイスやフランスでプロテスタントが生まれていきます。
これらカトリック教会に対するプロテスタント達の離脱を「宗教改革」と呼びます。









キリシタン大名




初めは布教に苦しんだキリスト教徒一行。
しかし、キリシタン(キリスト教徒のこと)の熱心な布教により、徐々に日本人の心にもキリスト教の教えが根付いていきます。
中でも九州では西洋と接する機会が多かったため、急激に広がりました。
大名の中にも熱心なキリスト教徒が現れます。
彼らはキリシタン大名と呼ばれました。
大友宗麟(おおともそうりん)
有馬晴信(ありまはるのぶ)
大村純忠(おおむらすみただ)
などがいました。
イエズス会は日本での布教の成果を示すため、伊藤マンショなど4人の少年をローマ教皇の元へ連れていきました。
彼らを天正遣欧使節団(てんしょうけんおうしせつだん)と言います。
彼らはヨーロッパで熱烈な歓迎を受けました。



