徳川幕府の仕組み



1 大名を親藩(しんぱん)譜代(ふだい)、外様(とざま)にわけたこと。
2 武家諸法度(ぶけしょはっと)を定めたこと。
3 諸大名の経済力を弱めたこと。



親藩(しんぱん)大名とは、徳川家康の親戚関係のある者です。
譜代(ふだい)大名は関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えていた者。
外様(とざま)大名は関ヶ原以降に徳川家に仕えた者。
家康は積極的に大名の配置替えを行い、信頼できる大名を江戸周辺から順次置いていきました。
大名の領地を「藩(はん)」と言います。
大名が分家していくことで、江戸末期には270もの藩がありました。






参勤交代(さんきんこうたい)
第3代将軍の徳川家光の時代のことですが、幕府は参勤交代を制度化します。
大名は1年おきに江戸、自国の領地に交替で住むことになります。
従者も従え、200~300人の行列(大名行列)でしたが、中には3000人ほどの従者を従える大名もいました。
これらの費用は全てその大名持ちです。
その人数の食事、宿、もろもろの金額を考えただけでも相当な出費でした。
また、大名は1年もの間領地を離れるため、幕府に反抗する機会も自然に失われていったのです。










当然家康は朝廷や公家の動きも監視します。
京都に京都所司代をおいて朝廷を監視します。
また、禁中並公家諸法度(きんちゅならびにくげしょはっと)という法律で天皇と公家の権力を制限しました。

朱印船貿易(しゅいんせんぼうえき)



徳川家康は初め、キリスト教に関して柔軟な姿勢を見せていました。
しかし、全国的に布教が広まると家康の態度が変わり始めます。
キリスト教の唯一神を崇拝するスタイルは、領主や将軍への忠誠がおろそかになると考えたのです。
また、キリスト教国との南蛮貿易が発展し、西国大名が最新の武器を手にし強国となっていくことを案じたためです。
このような理由で、家康は全国にキリスト教禁止令を出します。
そのような中、オランダはキリスト教の布教はせず、貿易のみを行う国でしたので家康にとっては理想の貿易国でした。





「買わなければ違う港町で売る」
購入にためらう日本人に対してポルトガル人は強気の姿勢でした。
中国の生糸(きいと)を主に輸入していた日本人
銀の保有量が多い日本人に対して、ポルトガル人は強気に売ってきます。
そこで日本が考えたのは、生糸を国が一括購入する案です。
一括購入したあと、国内で売るシステムに変えました。
国が貿易に介入することで、過剰な銀の流出を食い止めたのです。
こうして日本は徐々に貿易慣れしていきました。





そして鎖国(さこく)へ
貿易によって国家が潤ってきた日本
反面、その陰で大きな問題が発生してきました。
幕府の体制に合わないとの理由で、キリスト教禁止令を出した家康
しかしそうも簡単に事は進みませんでした。
キリスト教徒達は簡単に信仰をやめなかったのです。
そこで第2代将軍徳川秀忠(ひでただ)の時に禁教令を強化します。
信仰を捨てないキリスト教徒を処刑し始めたのです。




1635年第3代将軍徳川家光は、朱印船貿易を停止しました。
また、日本人の出国と帰国を一切禁止します。
長崎の海に出島(でじま)を築き、そこにポルトガル人を住まわせ日本人と交流できないようにしました。
これらは全てキリスト教を日本国内から根絶させるためです。
やがてキリスト教徒への弾圧に対して島原・天草一揆が起きます。
キリシタンの天草四郎と言う少年をリーダーにして戦ったこの一揆は、幕府軍に鎮圧されます。
これを受けて幕府は1639年、ポルトガル船の来航を完全に禁止し、
1641、オランダ商館を出島に移し、中国とオランダだけ貿易を行うようになります。
この禁教、貿易統制を鎖国と呼びます。



鎖国完成から、開国までの約200年間
江戸時代は平和な日々が続きます。
しかし、国を閉ざした鎖国政策のため、外国の発展に全く追いついていくことが出来なくなりました。
それが1853年黒船ペリーの来航で明るみになります。
