江戸の街道整備
徳川幕府が開かれてから江戸は急成長して行きます。
江戸はやがて国際都市「東京」へと変わります。
江戸幕府が開かれた当初、江戸の人口は約10万人ほどでした。
しかし18世紀に入ると人口は100万人を超え、世界でも有数の大都市に成長しました。
そして現在(2019年)では、東京都の人口は推定1200万人です。
江戸初期から100倍以上に増加した人口。
このことからも江戸の都市計画がいかに優れていたものであったかがわかります。
その都市計画のひとつに、江戸の街道整備があります。
都市の発展には交通網の整備が欠かせません。
人の往来、物流ともに、どの方面からもアクセスしやすいこと。
そして、交通網の基盤となる道路には、それなりの広さや路面の整備されていること。
また遠方からの物資輸送のため港町が整備されていること。
政治・経済・文化の中心となる江戸。
徳川幕府は、この交通網の整備と経済発展により急成長を遂げていきます。
五街道





江戸の中心地である日本橋が五街道の起点になっています。
そこから各街道の一里毎に一里塚が置かれます。
一里は約4kmです。
三里で約12kmです。
中山道の三里目「志村一里塚」(※現板橋区)は国家指定の史跡にされています。
「志村一里塚」は日本橋から12km離れた地点であることがわかります。








飛脚とは、ふんどし姿で街道を走り、手紙や荷物を各地に届ける配達業です。
江戸から京へは幕府と朝廷間の連絡もあり、飛脚の存在はとても重要です。
しかしこの距離を一人で走り続けるわけではありません。
飛脚は同業者が各宿場に滞在しており、次の宿場で別の人間にバトンタッチし入れ替わり配達します。
これをリレー方式と言います。
江戸と京を結ぶ東海道には53の宿場町がありました。
例えば、一人2宿場を走り約27人のリレーでつなげば、一人約20km走ることになります。
江戸から京へは約500kmありますが、早くて3日で届けたそうです。
歌川広重(うたがわひろしげ)の「浮世絵(うきよえ)」東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)が有名です。





木綿や油、醤油(しょうゆ)を運ぶ菱垣廻船(ひがきかいせん)
酒を運ぶ樽廻船(たるかいせん)
これらの運搬船は定期的に大阪から江戸まで往復し物資を搬送しました。
また東北や北陸の年貢米を大阪や江戸に運送するのに西廻り航路(にしまわりこうろ)や東回り航路(ひがしまわりこうろ)を開きました。

株仲間(かぶなかま)と両替商(りょうがえしょう)









株仲間とは同業者による組合のことです。
例えば江戸に大きな魚市場があるとします。
そこに所属しなければ漁業を行い、魚を自由に売りさばくことは出来ません。
それが株仲間です。
その魚市場に所属できる権利。
この権利のことを株と言います。
この株を所有することで魚市場の仲間入りが認められます。
反対にこの株を持たなければ、勝手に漁業を行い魚を売り裁くことはできません。
株仲間は幕府や藩に税金を納めて、保護してもらっています。
そこに属さない個人営業者は一切保護されず締め出されてしまいます。
いかに安く新鮮な魚を仕入れ、庶民から人気のある魚屋でも、です。
幕府や藩、株仲間の双方に取って有益な仕組みでした。
幕府は米の税収以外に安定して得られる税を確保しようと考えました。
米などの年貢(ねんぐ)による税は、その年により収穫量が変わり、安定した税収を望めません。
そこで商人や職人たちからのお金による税収を考えます。
それが株仲間を保護することにより得られる税収でした。












両替商(りょうがえしょう)

















