中学歴史定期テスト対策

歴史定期テスト対策第四回目

定期テスト対策第四回目

奈良
中学生歴史教科定期テスト対策の第4回目です。
ページは42~45Pとなります。

ここでは「律令国家の成立と平城京」「奈良時代の人々の暮らし」が出題範囲です。
ポイントは律令(りつりょう)の意味、そして律令がもたらした人々の暮らしの変化を理解することです。

律令唐(とう)で作られた法律です。
律(りつ)は刑罰の決まり、令(りょう)は政治を行う上での様々な決まりです。
律令に基づいて政治を行う国家を律令国家(りつりょうこっか)と呼びます。

唐(とう)は皇帝を中心に強大な帝国を築き上げました。
天皇中心の強国日本を作り上げるため、日本は唐の国の政治を学んだのです。
それが律令(りつりょう)です。

大宝律令(たいほうりつりょう)

奈良
律令を学んだ日本は、本格的に国の制度として取り入れることに決めました。
律令を翻訳し、より日本の文化にあう形に律令を改良していきました。
こうしてできたのが大宝律令(たいほうりつりょう)です。

大宝律令は、いわば唐の律令をより日本らしく改良した、リニューアルバージョンです。
ちょうど元号が大宝に変わり、大宝元年(701年)に定められたことから、大宝律令と呼ばれています。

平城京(へいじょうきょう)

710年には、奈良盆地の北部に唐の都の長安(ちょうあん)にならった平城京が建てられました。

律令国家として新たな門出に立った日本。
その象徴とも言えるのが平城京です。
「なんと(710)立派な平城京!」で覚えましょう。

約80年後、都は京都の平安京に移ります。
710年から平安京に移るまでの約80年間を奈良時代と呼びます。

奈良時代は唐と深い関わりがありました。

遣唐使(けんとうし)の派遣により、多くの唐の文化が日本に入ってきます。
仏教とのかかわりもさらに強くなっていきます。
人々の暮らしは律令により事細かく制限されます。

これが奈良時代の特色です。

五畿七道(ごきしちどう)

奈良
律令制度を取り入れた日本。
では、その律令制度とはどのような制度なのでしょうか。
この律令制度の仕組みを理解することが最大のポイントとなります。

五畿七道(ごきしちどう)律令制度の役所の仕組み
この2つの内容を理解しましょう。

天皇中心の政治体制を作る

この目的を達成するために取り入れたのが律令制度です。

つまり五畿七道律令制度による役所の仕組みは、天皇の命令を効率よく日本国内に響き渡らせるために整えられた制度なのです。

五畿七道は、日本全国を8つのブロックにわけます。
そのひとつが五畿(ごき)です。
他の7つは道(どう)です。

五畿は天皇が直接治める地です。
畿内は大和(やまと)河内(かわち)摂津(せっつ)山城(やましろ)和泉(いずみ)の5つの国が集まってできています。

7つの道は東海道(とうかいどう)東山道(とうさんどう)北陸道(ほくりくどう)山陰道(さんいんどう)山陽道(さんようどう)南海道(なんかいどう)西海道(さいかいどう)から成ります。

奈良
日本全国を天皇一人で治めるのは困難です。
そこで五畿(ごき)は天皇が、他の七道は国司(こくし)達が天皇に代わり治める方法をとったのです。

七道の中でひとつだけ中央(五畿)に通じていない道があります。
西海道(さいかいどう)です。
中央から遠く離れ、しかも陸路からも遮断されている西海道

この遠方の地を治めるために作られたものが大宰府(だざいふ)です。

大宰府(だざいふ)は独自に政治や外交を行う権限を与えられていました。
九州は朝鮮半島の目と鼻の先です。
新羅(しらぎ)などに攻撃された場合、中央(五畿)の判断を仰いでいる暇はありません。
そのため、大宰府(だざいふ)には独自に判断させ、政治外交を行わせたのです。

二官八省(にかんはっしょう)

奈良
律令による役所の仕組みとして、二官八省(にかんはっしょう)があります。
太政官(だじょうかん)と神祇官(じんぎかん)が二官(にかん)です。
他、大蔵省(おおくらしょう)民部省(みんぶしょう)など国の財政や戸籍・租税を扱う担当を省(しょう)と言います。
省は全部で八つあります(八省)

天皇の下に置かれ、実際に政治を行ったのが太政官(だじょうかん)と呼ばれる組織です。
現代で言えば、内閣と考えてもらえば良いでしょう。
その太政官(だじょうかん)の中のトップが太政大臣(だいじょうだいじん)です。

五畿七道(ごきしちどう)と二官八省(にかんはっしょう)は、中学生の問題で内容まで問われることはないと思います。
しかし、穴埋め形式では大いに出題される可能性があります。
畿内5か国の名称、各道、八省の名称と役割は最低限覚えておきましょう。

五畿七道と二官八省をわかりやすく解説する五畿七道(ごきしちどう)と二官八省(にかんはっしょう)を例え話で説明する ...

奈良時代の人々の暮らし

奈良
先にお話ししたように、奈良時代は律令制度により本格的に国を治めようとした時代です。
律令制度により人々の暮らしがどのように変化したのかを、説明できるようにしましょう。
班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)

戸籍に登録された6歳以上の全ての人々には、性別や良民、賤民(せんみん)の身分に応じて口分田(くぶんでん)が与えられ、その人が死ぬと国に返される制度です。

一見、「田んぼがもらえるって嬉しい!」と思ってしまいそうですが、大間違いです。
口分田に応じて税が徴収されるため、人々は重い負担に苦しむことになります。

特に、6歳の子が田をもらったとしても何ができるでしょうか?
結局は親が全て耕し、稲を育てることになります。

しかし、口分田は、その人が死ねば返さなければなりません。
一生懸命耕し、良い田を作ったとしても結局は返さなければならない。
これでは良い田を作ることも馬鹿馬鹿しくなってきます。

さらに、肝心な親は都まで布や特産品を納めに行く義務があります。
これらは調(ちょう)・庸(よう)呼ばれます。
そして時には兵役の義務もあり、都に1年や九州北部へ3年、防人(さきもり)として赴きました。

これでは肝心な口分田(くぶんでん)の税が納められなくなります。
苦しい税負担に耐えられなくなった人々は、口分田を放置し、逃亡してしまう始末でした。

奈良
こうして班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)はすたれていきました。
そこで朝廷が考えたのが墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)です。
墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)

人口増加により深刻な口分田不足が続いた国内。
そこで朝廷が考えたのが墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)
です。
土地の私有が認められたのです。
新しく開墾した土地(※墾田(こんでん)と言います)は口分田と同様に租(そ)がかかりますが、売買したり、子や孫に残すことが出来るようになったことが大きな特色です。

律令国家が目指すものは天皇を中心とした国家づくりです。
天皇に絶大な権力を持たせるために必要なこと、それは、有力豪族から土地と人民を天皇に返させることです。
つまり全ての土地と人を天皇の所有とすることです。
これを公地公民の制(こうちこうみんのせい)と言います。

これらを実現するために、朝廷が行った政策が、五畿七道二官八省の整備であり、班田収授法でした。

しかし、班田収授法は不発。朝廷は妥協し墾田永年私財法を出します。
結果、私有地が増えることになります(公地公民の崩壊)

こうして律令制度の根幹を成す公地公民が崩れたために、私有地を多く持つようになった貴族や寺院が力をつけていくことになります。

貴族や寺院が持つ私有地は荘園(しょうえん)と呼ばれます。

奈良
以上が、今回の内容です。
租・調・庸の内容や、723年の三世一身の法の内容も、教科書でしっかりと理解してください。