日本を守れるか?蒙古襲来!
日本を守れるか?蒙古襲来!
定期テスト対策第12回目はモンゴルの襲来と鎌倉幕府滅亡です。
教科書の76P~77Pです。
鎌倉幕府の衰退と滅亡。
その最大の要因はモンゴルの襲来です。
1274年と1282年の2度に渡るモンゴルの襲来を「元寇(げんこう)」と言います。
元寇(げんこう)は日本が初めて侵略の危機に立たされた歴史的出来事です。
しかし、鎌倉幕府は執権(しっけん)の北条時宗(ほうじょうときむね)の下、一致団結し見事2度に渡るモンゴルの襲来を打ち破っています。
アジアとヨーロッパにまたがる大帝国「元(げん)」を破った鎌倉幕府。
本来ならば、鎌倉幕府はこの大活躍により、盤石の武士政権を確立してもおかしくはありませんでした。
ところが元寇(げんこう)のわずか50年ほどで鎌倉幕府は滅亡することになります。
元寇(げんこう)から鎌倉幕府の滅亡、その背景に何があったのか。
その背景を読み解くことが、定期テスト対策最大のポイントになります。
元寇(げんこう)によって鎌倉幕府に何が起きたのか?
国内で幕府を倒したいと思っていたのは誰か?
元寇(げんこう)
2度の元(げん)による襲来を元寇(げんこう)と呼びます。
2度に渡る襲来を、鎌倉幕府はどのようにして撃退したのでしょうか。
元々モンゴル高原で遊牧生活をしていたモンゴル民族。
チンギス・ハンは部族を統一し、モンゴル帝国を築きます。
チンギス・ハンの孫フビライ・ハンの時に、大帝国を築き上げ首都を大都(北京)に定めます。
これが元(げん)です。
フビライ・ハンは大帝国を統治するために、非常に柔軟な姿勢を取りました。
他宗教を認めたり、支配下に置いた他国の文化を尊重し、異国の者でも有能な人間を重要職につけました。
陸路だけではなく、海上の航路も整備しました。
こうした政策により、フビライは大帝国を築き上げることに成功しました。
やがてフビライの目は東の島国、日本に狙いを定めます。
小国日本、誰もが元(げん)の勝利を疑わなかったはずです。
元(げん)はまず、朝鮮半島の高麗(こうらい)を従え、日本に再三、服従するように使者を送ってきました。
しかし、鎌倉幕府の執権(しっけん)、北条時宗(ほうじょうときむね)は断固拒否しました。
この時代の朝鮮半島にあったのは高麗(こうらい)です。高句麗(こうくり)ではありません。
間違いやすいところです。
徹底無視を貫いた北条時宗(ほうじょうときむね)にフビライの怒りが爆発しました。
こうして1度目の日本襲来が始まります。
1274年文永の役(ぶんえいのえき)です。
九州北部の博多湾岸に上陸した元(げん)は、集団戦法と火薬を使った武器により、幕府軍を苦しめました。
まざまざと力を見せつけ、元(げん)は引き上げていきます。
2度目は1281年の弘安の役(こうあんのえき)です。
しかし、幕府は2度目の襲来に備え、用意周到に準備しました。
博多湾に防壁をしき、簡単に元(げん)の上陸を許しませんでした。
御家人の活躍もあり、上陸できずにいた元(げん)は、その後海上で暴風雨により大損害を受けます。
こうして元(げん)は引き上げることになります。
日本の勝利の瞬間でした。
鎌倉幕府、滅亡への序章
元寇(げんこう)の危機をなんとか回避した鎌倉幕府ですが、ここから幕府は滅亡への道を歩み始めます。
元寇(げんこう)は、鎌倉幕府滅亡への序章にすぎなかったのです。
詳しく見ていきましょう。
元寇(げんこう)の危機を回避できたのは(特に2回目)、幕府のぬかりない準備や暴風雨もひとつの要因です。
しかし、最も大きな要因は御家人達の活躍です。
御家人は命をかけて将軍のために戦う(奉公)
将軍は、領地の安堵や新たな領地を与える(御恩)
この御恩(ごおん)と奉公(ほうこう)の関係が主従関係です。
主従関係により、御家人と将軍の絆は強く結ばれていました。
御家人は元寇(げんこう)に際して、自費で武具や馬を揃え、九州の防御のために参陣しました。
奉公を果たすためです。
しかし、元寇に勝利したとはいえ、幕府は御家人達に御恩を果たすことはできなかったのです。
なぜなら、元寇は自衛のための戦いであり、どこかの国を滅ぼし、新たな土地を手に入れたわけではないからです。
新たな領地を与えるという御恩を、幕府は果たせませんでした。
御家人は自費で戦いに参加したために困窮を極めました。
致し方なく土地を売ったり、税が払えず手放してしまったりする御家人が急増しました。
奉公は果たした。されど御恩は果たされない。
これでは主従関係が成り立つわけはありません。
御家人達の不満は一気に高まりました。
こうした中、幕府は1297年、永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)を出し、御家人のために売った土地をタダで取り戻したり、借金を帳消しにするなど手を打ちました。
しかしあまり効果はありませんでした。
幕府に対する不満は、不信感になってしまっていたのです。
幕府というよりも、むしろ不満の矛先は権力を一手に集める北条氏に向けられました。
北条氏も元々は同じ御家人同士です。
「なぜ将軍ではなく北条氏に従わなければならないのか」
という思いが、御家人達の間にはあったのでしょう。
こうした中、幕府は、御家人達の統率が取れなくなっていきます。
中には領主や幕府に従わず、悪党となる者達も現れました。
この幕府の混乱を待ってました!とばかりに立ち上がった者達がいました。
建武の親政(けんむのしんせい)
鎌倉幕府の衰退を「待ってました!」と立ち上がった人。
それは後醍醐(ごだいご)天皇です。
平清盛以降、武士の成長は著しく、とうとう政治の場にまでおどりでるようになりました。
当然面白くないのは朝廷であり、天皇でした。
しかし、武士の権力は日増しに強くなり、天皇はじっと我慢して待つしかなかったのです。
武家政権を倒し、朝廷に政権を取り戻すことは天皇の念願でした。
そのチャンスは以前一度訪れています。
1221年の承久の乱(じょうきゅうのらん)です。
第3代将軍の源実朝(みなもとのさねとも)の暗殺後の混乱に乗じて、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が挙兵したのです。
しかし、幕府は北条政子の檄により、御家人達が一致団結し、これを撃破しています。
今回は2度目のチャンスでした。
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、1度は失敗し、隠岐(おき※島根県)に流されますが、楠正成(くすのきまさしげ)といった武士や有力御家人の足利尊氏(あいかがたかうじ)を味方につけ、鎌倉幕府を滅ぼすことに成功しました。
朝廷に政権を取り戻すという念願が叶ったのです。
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)による、天皇を中心とした新しい政治を建武の親政(けんむのしんせい)と呼びます。
1221年の承久の乱と1333年の建武の親政は混同してしまいがちです。
誰が起こし、誰が勝利し、結果何が起きたのかをしっかりまとめておきましょう。
承久の乱後、京に置かれたのが六波羅探題(ろくはらたんだい)です。
鎌倉から遠く離れた京の監視をするためです。
元寇から建武の親政の流れを年表で確認しましょう。
一連の流れを自分の言葉で説明出来るようになれば、定期テスト対策としては上出来です。