フランス人権宣言
フランス人権宣言
中学歴史定期テスト対策の第34回目です。
イギリス、アメリカに続きフランスにも近代化が始まります。
いかにして民衆は王政を打倒していったのでしょうか。
教科書は146P~147Pです。
フランスはルイ14世の時、絶対王政の絶頂期にありました。
絶対王政とは、王が議会を無視し、全ての権力を一手に政治を行うことです。
専制君主制も王の独断で政治を行うことに変わりはありませんが、絶対王政はさらに王の権力が強力になったものです。
ルイ14世は絶対王政の代名詞とも言える人で、強大な権力で国を治めました。
ルイ14世がパリ郊外に建設したヴェルサイユ宮殿は、絶対王政を象徴した建物でもあります。
フランスの絶対王政
ルイ14世の時、絶対王政は最盛期にありました。
議会は完全に機能が停止し、国王の思うがままの政治が行われました。
身分による貧富の差も激しかったことが、この時代の特徴です。
フランスの身分は、第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)、第三身分(平民)にわかれていました。
聖職者や貴族などの第一、第二身分には免税などの特権がありました。
人口の約90%を占める平民(第三身分)が、納税の義務を負いました。
平民の暮らしは非常に苦しいものでした。
いつの世も、大変な思いをするのは一般庶民なのね。
しかし、この納税がきっかけで、絶対王政が揺らぐことになるのです。
原因はアメリカ独立戦争(1776年)です。
戦争にはお金がかかります。
フランスは、絶えずイギリスと戦争を行っていました。
そのような中、北アメリカ大陸のイギリス植民地が、イギリス本国に対して反旗をひるがえしました。
独立戦争です。
フランスは敵国イギリスの弱体化を図るため、積極的に北アメリカのイギリス植民地に支援を行いました。
結果は、知っての通りイギリス植民地側の大勝利、アメリカ合衆国が誕生します。
ニューヨークにある自由の女神は、フランスの美女パリジェンヌがモデルです。
戦勝の記念に、フランスがアメリカに贈ったものです。
しかし、支援の際にフランスは莫大な資金を使ってしまいました。
そのため、緊急的に課税をしなければならなくなりました。
こうして1789年、国王ルイ16世は、議会を招集しました。
免税特権があった第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)からも税を徴収しようとしたのです。
フランス革命
当然聖職者や貴族は怒ります。
第三身分の平民も我慢の限界でした。
議会に集まった第三身分の平民達は、独自に国民議会を結成しました。
第三身分からなる国民議会は、「人権を重んじ、身分差別の撤廃を叫び、国王に憲法の制定を認めさせよう」と誓いあいました。
憲法を制定するまでは議会を解散しないと言う誓いです。
この国民議会を国王ルイ16世は弾圧しようとします。
そのために国王はヴェルサイユに兵を集め始めました。
それに対して民衆が起こしたのがバスティーユ牢獄への襲撃です。
バスティーユ牢獄には弾薬や火薬が保管されており、戦いに備えるため民衆が襲撃したのです。
この襲撃をきっかけに民衆の暴動は瞬く間に各地に広まります。
そして同年、国民議会はフランス人権宣言を発表します。
フランス人権宣言は、全ての人間の平等を説き民主主義の基本原理となったものです。
国王はしぶしぶこれを認めました。
以上がフランス革命です。
全ての人間を平等とする人権宣言を認めると言うことは、国王の特権を放棄すると言うことですね。
国王としても苦渋の決断でしたが、それ以上に民衆の怒りのパワーが勝ったのですね。
革命とは、そういうものです。
国王の処刑
厳しい身分制度、そして財政難。
そのような状況の中、独立戦争でのアメリカの勝利は、フランス国民に大いなる希望を与えました。
アメリカ独立戦争は、古い体制に反抗し新しい体制を作ることに成功した希望の光でした。
人間のあり方についての新しい考え方、啓蒙思想(けいもうしそう)が人々の心に芽生えていたこともあり、フランス国民に革命思想を持たせるには時間の問題であったと言えるでしょう。
フランス人権宣言は完成しましたが、誰も国王の存在までも否定しようとは考えませんでした。
国王は頂点にいる。
しかし統治するのは憲法による。
その体制を作ることが、フランス革命の大きな目的でした。
しかし、事態は一変します。
あろうことか、国王ルイ16世と妃のマリー・アントワネットは国外逃亡を試みたのです。
「国を捨てようとした王などはいらない」
国王ルイ16世とマリー・アントワネットは捕えられ、処刑されてしまいました。
その後、フランスは、国王の存在を必要としない「共和制」へと移行することになります。
※共和制とは、国民の代表者が国家を統治する政治体制です。
アメリカの大統領制などが該当します。
王政の復活
フランス革命は成功したものの、フランス国内は不安定な状態が続きました。
王政から共和制へと変わったことによる混乱。
フランス革命を警戒し、周辺の王政を採用する国々はフランスを敵国と定めました。
そのような中、フランス国内は圧倒的な軍事力の誕生を望む声が高まりました。
そのような中、現れたのが軍人ナポレオン・ボナパルトです。
ナポレオンは瞬く間に政府を倒し、自らがフランスの皇帝を名乗りました(1804年)
フランス革命により崩壊した王政ですが、結局10年足らずで王政が復活することになったのです。
早すぎ!
その後破竹の勢いで戦争に勝利し続けたナポレオンでしたが、ロシアとの戦いで大敗北を喫します。
フランス革命がもたらしたもの
結局は王政に戻ってしまったフランスでしたが、フランス革命が無駄であったわけではありません。
特にフランス人権宣言は、啓蒙思想とも重なり、抑圧され、希望を見出せない人々に生きる力を与えたのです。
人間は急激な変化には対応できないものです。
特に長い歴史によって培われてきた国王という絶対的な支配者と支配される者達との関係。
その関係を失わせたのがフランス革命です。
その変化に柔軟に対応できず、ナポレオンという国王の時代に、すぐに舞い戻ることになりました。
しかし、まず一歩、平等な社会実現のために踏み出せたことは、大きな功績です。
フランス人権宣言は、静かに、そして大きな力を秘めて人類を進化させていくことになります。