徳川綱吉と元禄(げんろく)文化
第五代将軍綱吉(つなよし)
前回は江戸の街道整備についてお話ししました。
今日は第五代将軍の徳川綱吉の政治と元禄(げんろく)文化についてお話しします。
ちなみに綱吉は犬将軍と呼ばれていました。
いぬ!?
顔が犬っぽいとか。
犬を非常に大切にした将軍だからです。
動物を大切にすると言うことは、とても優しい将軍ですね!
犬ならまだしも、極端に生き物を保護し、蚊を潰した家来が罰せられたこともあるそうです。
なぬ!?黙って血を吸わせろってこと!!?
徳川綱吉の政策で生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)があります。
これは特に犬の保護を目指したものです。
しかし、極端に生き物全般を保護しようとしたため、虫までもが保護の対象になりました。
各地から野良犬を集めて犬屋敷に住まわせしっかりエサも与えられます。
相当な数の犬が集められ、施設の維持費やエサ代は庶民の税金から支払わされます。
「お犬様」と呼ばれた犬。
庶民からは不満の声が高まって行きます。
なぜこのようなことが起きたのか。
子宝に恵まれない綱吉のために僧に相談した母。
その僧に「無駄な殺生をやめ、生き物を大切にすれば世継ぎが生まれるであろう」と助言をもらいました。
特に綱吉が戌(いぬ)年生まれだったので、犬を大切にすると良いと言われたことから始まったとするのが通説です。
と、とんでもない将軍じゃないか!?
ちょっとやり過ぎな気がします・・・。
と思うのですが、この綱吉の時代はとても平和な時代でした。
戦乱と言う戦乱がほぼ「0」の時代でした。
暴動とか起きてもおかしくなさそうだけど。
これは綱吉が従来の武力による政治から、学問の力による政治に切り替えたことに起因します。
儒学(じゅがく)のすすめ
紀元前6世紀頃、現代から見ると約2500年前に、中国に孔子(こうし)が現れました。
孔子は人を敬う心を説く儒学を生みだします。
「下の者は上の者をよく敬うように」と言う考え方が、幕府による支配体制に非常にマッチしていました。
学問が好きだった綱吉は、儒学を広く庶民にもすすめて、政治に生かしていったのです。
儒学の中には家族や動物を広く愛する教えも盛り込まれています。
生類憐みの令は、儒学の影響も受け成立したのです。
儒学の中でも身分秩序を重んじる朱子学(しゅしがく)を綱吉は特に重んじました。
な、なかなか良い将軍じゃないか。
武力じゃなく、みんながお互いに敬えたら良い時代になると思います。
この儒学の教えを上手く取り入れたことで、綱吉の時代は実に平和な日々が続きました。
少しほっと出来る時代が来たんですね。
政治も経済も安定したので、庶民も活気づき、日常生活を楽しむ風習が芽生えたんですよ。
やるじゃん、綱吉!
一方で、質の悪い貨幣を作って少々経済を混乱させたこともありましたけどね。
幕府の財政が悪化し始めたのもこの頃です。
貿易のバランス変化で貨幣が海外へ多く流出したり、もしくは町人や武士が貨幣を蓄えたり等
原因は様々なことが考えられます。
とにかく幕府の財政が悪化したと言うことは、「幕府の手元にお金がない」と言う状況です。
そこで綱吉たちが思いついたのが単純に「お金の量を増やす」ことでした。
当時の貨幣は金(きん)を使用し作られていました。
しかし、一時期から日本の金の産出量は激減したため、まともに貨幣を作ることが出来ません。
そこで金の量を減らし、銀を多く混ぜることで貨幣の量を増やしました。
しかし、銀を混ぜることは、貨幣の価値が下がることを意味します。
例えば、これまでお米一俵(いっぴょう)を貨幣1枚で購入できていたのに、3枚出さなければ購入できないと言う状況になります。
物の価値は変わっていないので、幕府の財政難は改善されません。
結局貨幣の数量だけ増えると言う混乱だけが起きました。
これは経済の話になりますが、貨幣の価値が下がると言うことは、物の価値があがることと一緒です。
この物価(ぶっか)上昇をインフレーションと言います。
公民で勉強しますので覚えておきましょう。
や、やっぱダメじゃん!!
それでも平和な時代を築いたのは確かですから、綱吉の政治は悪くなかったと思いますよ。
さあ、では庶民の活気、日常生活を楽しむ風習を見ていきましょう。
元禄文化(げんろくぶんか)です!
元禄文化
元禄文化は上方(かみがた)つまり京都や大阪が中心に栄えた文化です。
経済の発展とともに都市が繁栄し、町人たちが経済力を持ち芽生えた文化です。
庶民はどのように日常を楽しんだんですか?
人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)
こちらは人形を使ったお芝居です。
たくさんの物語をBGM(音楽)付きで披露します。
近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)が多くの優れた物語を作りました。
歌舞伎(かぶき)
現代でもとても人気がある歌舞伎。演劇です。
江戸では市川団十郎などの名優が出ました。
俳諧(はいかい)
松尾芭蕉(まつおばしょう)は各地を旅し、様々な俳諧を残しました。
「奥の細道」に編集されています。
俳諧は明治時代になると俳句(はいく)と呼ばれます。
浮世草子(うきよぞうし)
元禄期の武士や町人たちの日々の暮らしを小説にしたものです。
井原西鶴(いはらさいかく)が作者です。
浮世絵(うきよえ)
庶民の普段の姿を描写したもの。
「見返り美人」菱川師宣(ひしかわもろのぶ)作
演劇や人形劇、小説、絵画、退屈しなさそうですね。
戦乱の世では考えられなかった日常ですね。
このような生活を庶民に提供できた綱吉は、やはり良い将軍だったと思いますよ。
庶民より「お犬様」を大事にしたのに?
生類憐みの令ですが、最近の研究ではそれほど悪いものではなかったようなのです。
綱吉が儒学を重んじた話は先述のとおりです。
儒学では、他人を思いやる精神を教えています。
実は、綱吉の生類憐みの令は、生き物に限ったものではありませんでした。
当時は捨て子などが多い時代です。
病院も存在しませんから、病人は死にゆく運命にある人が殆どでした。
捨て子や病人に対する保護も、生類憐みの令の目的とされていました。
儒学をすすめ、他者を思いやる心を人々に植え付けようとした綱吉。
極端に生き物だけを保護したとする通説のほうが、無理がある話ではないでしょうか。
狂犬化する野犬を人々から隔離し、なおかつ生き物を大切にする観点から犬屋敷を作ったとも考えられます。
時代によって研究が進み、歴史の通説が覆ることもあります。
綱吉こそ良い例だと思います。
確かに、儒学との関係を知ると、極端に犬だけを重んじたと考える方が軽率かもしれません。
ただし、中学生の皆さんは、あくまでも教科書に記載されたとおりに覚えてくださいね。
私の授業は歴史を楽しく学ぶためのきっかけです。
教科書が中心ですよ。
国学と洋学
元禄期は、学問が盛んだった時代でもあります。
日本人の古い心を呼び起こすため研究をする人達。
進んだ西洋の学問を学ぼうとする人達。
それらはそれぞれ国学、洋学と呼ばれます。
国学の代表者と言えば、本居宣長(もとおりのりなが)です。
本居宣長は儒教や仏教と言う外国の文化から離れ、昔の日本人の心を呼び起こすために国学を学ぶ必要があるとしました。
そのためには昔の言葉や文学を学ぶことが大切だとし、難解な万葉仮名(まんようがな)を研究します。
万葉仮名は例えば「あ」を「阿」「い」を「伊」など漢字で表記したものです。
日本に平仮名が使われ始めたのが国風文化が芽生えてからですので、900年代のことです。
それ以前の歴史書である古事記や日本書紀、和歌集の万葉集などは難解な万葉仮名が使われていました。
本居宣長はこれらの素晴らしい書物にこそ、日本人の古き心を呼び起こす力があると考えたのです。
そして彼は生涯をかけて万葉仮名を学び、古事記の研究に励みました。
宣長の研究書「古事記伝」は1798年に完成しました。
「古事記」は日本国の成り立ちや天皇誕生を書物にしたためたものです。
古事記は712年にまとめられた書物ですので、いかに歴史ある書物かおわかりいただけると思います。
平城京に遷都したのが710年です。
難解な万葉仮名で書かれたこの書物を、仮名文字を使用し読みやすくまとめたものが「古事記伝」です。
いかに日本が素晴らしく、そして天皇は尊い存在であるかが記されている「古事記伝」
この「古事記伝」が江戸時代末期、幕末の志士達の心に火をつけ、尊王攘夷(そんのうじょうい)の精神が高まるきっかけとなります。
※尊王攘夷=天皇を尊ぶ「尊王」と外国を打ち払う「攘夷」。この考えを尊王攘夷と呼びます。
次に洋学です。特にオランダ人から伝えられるので「蘭学(らんがく)」とも言います。
蘭学では、科学や医学を学びました。
特に医学では、日本の医学がいかに遅れをとっているかを痛感した人がいます。
杉田玄白(すぎたげんぱく)です。
彼はまず蘭学を学ぶためにオランダ語の勉強から始めました。
その後ヨーロッパの解剖書(かいぼうしょ)を翻訳した「解体新書」を出版しました。
こうして杉田玄白らの努力により、日本の医学は発展し、蘭学を学ぶ基礎が出来上がったのです。
平和だからこそいろんな文化や学問が芽生えたんですね。
綱吉さん、やっぱりすごい!
何度も言いますが、基本は教科書です。
ただ、みなさんがもっと大きくなった時に、与えられた情報だけではなく、自分で調べてみると言う作業をしてみてはいかがでしょう?
もっと面白い歴史が発見されるかもしれませんよ。