信長と秀吉
信長と秀吉
中学歴史定期テスト対策の第21回目です。
教科書は106P~107Pです。
織田信長、豊臣秀吉による全国統一です。
織田信長と豊臣秀吉の全国統一の流れ。
織田信長と豊臣秀吉のキリスト教政策をおさえていきましょう。
信長の非常識な考え方
歴史ファンにとって、激熱な時代。
それが織田信長達が活躍した戦国時代です。
昨日の友は今日の敵
織田信長は幼少の頃から奇抜な服装や奇妙な行動を繰り返し、「うつけ」と呼ばれていました。
「うつけ」には「アホ」や「変わり者」といった意味があります。
しかし、そんな信長が強敵今川義元を倒し、天下統一目前まで上り詰めた事実。
これには信長の非常識さが大きな要因として挙げられます。
非常識?ですか?
非常識という言葉はあまり良い意味では使われませんね。
しかし、ある意味人と違うことが出来ない人には、世の中を変える力も備わらないとも考えられます。
例えば、信長のどんなところが非常識だったのですか?
桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)
今川義元の大軍勢を奇襲攻撃にて打ち破った戦い。
信長は奇襲攻撃の作戦を、ギリギリまで味方にすら知らせませんでした。
敵に寝返られては、作戦が筒抜けになってしまうからです。
何を考えているのかわからない信長。
味方にすら呆れられそうな時、突如信長は打って出ます。
裏で巧妙に情報収取を行っていた信長は、敵将義元の位置を正確に掴み、豪雨と共に切りかかりました。
義元を討たれた今川軍は総崩れになり、退散してしまいました。
通常、国の危機的状況は家臣一丸となって軍議を開き、対策を練るものです。
しかし、信長は一部信頼のおける家臣に情報収集を行わせ、ただひたすら時が来るのを待ちました。
誰にも作戦を明かさない
徹底した信長の戦い方です。
身分にとらわれない人事
信長と言えば、身分にとらわれない人事採用が有名です。
能力さえあれば、家柄にとらわれず採用する。
能力のあるものに競わせ、国を強くすることが信長の政策でした。
豊臣秀吉(とよとみひでよし)が最たる例です。
行商で旅をしていた秀吉を採用し、能力の高い秀吉を重宝しました。
結果、秀吉は数々の軍功をあげ、信長の天下統一への大きな貢献を果たしたのです。
当時では珍しい信長の人事。
信長の強さのひとつのポイントです。
鉄砲の重要性を見抜く
信長と言えば、鉄砲です。
破壊力がすさまじく、戦国大名たちは鉄砲に注目しました。
ところが、破壊力はすさまじいものでしたが、鉄砲は当時、非常に高価なものでした。
さらに、取り扱いに手間がかかるのも弱点でした。
一度射撃すると、次の発射までに時間を要します。
これでは戦場では役に立たないと、それほど戦国大名たちは重宝しなかったのです。
ところが信長は鉄砲隊を3人一組にわけます。
そして、一人が射撃を行っている間に、もう一人は火薬、弾込めを行い、もう一人は縄に火を点けるという三段構えの策を取ります。
こうして間隙をあけずに鉄砲を連続射撃出来るようにしたのです。
鉄砲の能力を下に見ていた武田勝頼率いる騎馬隊は、信長の軍勢に突撃をしかけます。
一発撃たれても次の射撃までに蹴散らす作戦です。
しかし、まさかの鉄砲の連射により武田騎馬隊は次々と倒れていきました。
有名な長篠の戦い(ながしののたたかい)です。
鉄砲の伝来、そして有効に活用することにより戦国時代の戦い方が大きく変化していきます。
鉄砲は、信長の全国統一事業に大きく貢献することになります。
※近年では、研究により鉄砲の三段撃ちは否定されつつあります。
楽市・楽座(らくいちらくざ)
安土城(あづちじょう)の城下町を賑わらせるため、座(ざ)を廃止し、関所を撤廃し、誰でも自由に商売ができるようにしました。
座(ざ)とは、同業者同士が団体を作り、領主などに税金を納め営業を保証してもらう制度です。
座に組する者や、税金が納められる領主、貴族などは潤いますが、よそ者は排除されてしまいます。
信長は古くからある座(ざ)の制度を撤廃し、誰でも自由に商売ができるようにしたのです。
その結果、アイデアがある人間は儲けを得ることができ、街は賑わい、多くの人が安土城下に集まりました。
信長は人が集まるところで経済が動くことを見抜いていたのです。
財力があればこそ、鉄砲も購入できます。
また、農民が戦に駆り出される当時の常識をなくし、戦い専門の人間を賃金で雇いました。
言わば戦闘のプロです。
自軍の質を上げることも、財力あってこそです。
信長は相当なスピードで、全国統一事業を成し遂げつつありました。
その背景には、信長の非常識さが垣間見えるのです。
信長の非常識エピソードは、まだまだありますよ。
やっぱり人と違うことを考えて、実行出来る人が歴史を動かしていくんですね。
鉄砲が全国統一事業を早めたこと。
楽市楽座の制
これらは定期テスト必須の出題です。
しっかり復習しておきましょう。
豊臣秀吉の天下統一
そんな信長でしたが、天下統一を目前に悲運の死を遂げます。
部下、明智光秀の裏切りにより夢半ばにして亡くなりました。
本能寺(ほんのうじ)の変か・・・。
なぜ明智光秀は裏切ったのでしょうか。
いろいろな説がありますが、かつて当然のように言われていた怨恨説(えんこんせつ)
これはありえないでしょう。
信長を恨んでってこと?
信長の天下統一事業は、とてつもないスピードでした。
ゆっくり息をつく暇も、信長にはなかったのではと思います。
当然、家臣にも無理をさせる場面は多々あったはずです。
全員が一丸にならなければ、成し遂げられなかったことですもんね。
天下統一には多くの犠牲が伴います。
時には辛い戦いをしなければならない場面もありました。
しかし、真の平和をもたらすには、早く天下統一を果たさなければならなかったのは確かです。
光秀くらいの立場になると、信長と家臣の間に挟まれて、大変だったでしょうね。
それでも、天下統一を果たせば全ては報われる。
そう考えるはずの光秀が、個人的な恨みで信長を殺すことは考えにくい。
確かに。信長にしかできないことだったしね。
だとしたら、なぜ?
きっと、もっと深い理由があるはずです。
光秀にしかわからない理由が。
さて、話をもどしましょう。
信長を討った光秀を、一番に討ち果たした秀吉は信長の後継者として最有力となります。
信長には跡継ぎがいましたが、長男の信忠(のぶただ)は本能寺の変の際、近くの二条城で無念の死を遂げました。
信忠の弟たち、信雄(のぶかつ)信孝(のぶたか)もいましたが、実力はぱっとせず、実質秀吉の力は揺るがないものとなっていきます。
さらに秀吉は、関東で強大な力を誇る徳川家康を従えることに成功します。
壮大に築かれた大阪城は、秀吉の本拠地となりました。
朝廷から関白(かんぱく)に任命された秀吉は、豊臣と姓をかえ、全国に停戦命令をかけとうとう全国統一を果たしました。
秀吉は、佐渡金山(新潟県)、生野銀山(兵庫県)、石見銀山(島根県)を直接支配し、大判(おおばん)などの統一金貨を発行しました。
信長と秀吉の時代を安土桃山時代と呼びます。
信長と秀吉のキリスト教政策
信長とキリスト教の関係は、非常に濃密です。
仏教徒には厳しい態度をとっていた信長も、キリスト教宣教師は優遇しました。
なぜそのような差が?
信長は生涯仏教勢力に手を焼いてきました。
比叡山(ひえいざん)焼き討ちなどはその最たる例です。
キリスト教は、新しい物が大好きな信長にとって、非常に魅力的な存在だったのです。
マントをつけている信長の肖像画もありますね。
西洋っぽい格好をしていますよね。
他には宣教師が持ってきた地球儀、赤ワインなどに心奪われたようです。
世界が丸いなんて初めて知った日にはびっくりだね。
秀吉は逆にキリスト教を警戒します。
キリスト教の布教により、スペインやポルトガルの軍事力が日本に近づくことを警戒したのです。
誰が日本を治めているかで態度が変わる。
キリスト教徒にとっては、難しい状況ですね。
長崎がイエズス会に寄進されている事実を知った秀吉は、バテレン追放令を出します。
寄進とは、寄付のことです。バテレンはキリスト教徒のことです。
国の一部がキリスト教化していたんだ!それは驚きだね!
ただし、長崎は貿易の儲けが大きく、秀吉もキリスト教の完全禁止とまでは踏み切りませんでした。
外国との付き合いは儲かるんだね。
しかし、この後、徳川政権になるとキリスト教徒への迫害が行われていくようになります。
今日はここまでです。