イギリスの歴史③
Contents
ステュアート朝
エリザベス1世には後継者がありませんでした。
大英帝国の礎を築いたエリザベス1世が亡くなると、テューダー朝は断絶し、代わりにスチュアート朝が王位を継ぎます。
ステュアート朝のチャールズ1世は専制政治(絶対王政)を行い、国民から多くの反発を買いました。
そこで議会が「権利の請願」を国王チャールズ1世に提出し、専制政治を制限しようとしますが、効果はありませんでした。
※「権利の請願」とは、議会の承認なしには国王が自由に政治を行えないようにする請願です。
絶対王政への不満から、王政を制限させようとする議会と国王の対立は深まっていきました。
さらに国王はイングランド国教会を良しとしない清教徒(ピューリタン)達に弾圧を加えました。
やがて議会の内部は「国王派」「議会派」に分かれて国内が乱れていきます。
その「議会派」にいたのがオリバー・クロムウェルです。
イギリス革命
クロムウェルは鉄騎隊と呼ばれる軍隊を率いて国王軍を破りました。
そして、チャールズ1世は処刑されました。
クロムウェルはこうして「共和政」を樹立し、政治の実権を握っていきます。
ここで着目すべきはスコットランドやアイルランドへの侵攻です。
アイルランドは反議会派の拠点が置かれたため、クロムウェルにより侵攻征服されます。
スコットランドはチャールズ1世の子(後のチャールズ2世)が逃げ込んだためこれにも侵攻
スコットランド軍を撃破します。
こうしてイングランドはグレートブリテン島内で優位な立場になっていきます。
※こうして現在のイギリスの基礎が出来ていきました。
ただし共和制と言ってもクロムウェルの権力は非常に強く、実質は独裁と言える体制でした。
これが清教徒革命(ピューリタン革命)です。
1642年のことでした。
クロムウェルの死後、再度国内は王政が復活します。
スチュアート朝ジェームズ2世の下、専制政治が行われました。
ジェームズ2世の娘メアリ(メアリ2世)はオランダのオレンジ公ウィレムの妻です。
※メアリ1世(ブラッディメアリ)とは別人なので注意
オランダはネーデルランド連邦共和国の中にある7つの州のひとつでした。
後にナポレオンの弟が王位につき、ネーデルランドは連邦国家から王国へと変わります。
ネーデルランド王国です。
王国の中の7つの州で最大の大きさであるオランダ。
そしてネーデルランド王国の首都アムステルダムもオランダ州にありました。
どうしてもオランダのインパクトが強すぎて、一般にネーデルランド王国はオランダの名称で通っています。
元々ネーデルランドはスペイン領でしたが1581年に独立を果たします。
独立運動の指導者であるオレンジ公ウィレムがオランダ総督となります。
オランダ総督とはネーデルランドの最高権力者の地位であり、国王とほぼ同じ意味です。
ちょうどこの頃、フランスではブルボン朝のルイ14世が活発に対外政策を取っており、ネーデルランドも脅威にさらされていました。
そこでオレンジ公ウィレムはイングランドに接近し、フランスに対抗しようとします。
こうして成ったのがジェームズ2世の娘メアリ(メアリ2世)とオレンジ公ウィレムの婚姻でした。
イングランドとオランダは婚姻関係により結ばれることになりました。
その後も国王ジェームズ2世は専制政治を推し進め、国内から反感を買います。
そこでイングランド議会はある策を練ります。
それはオランダ総督のオレンジ公ウィレムと手を組み、ジェームズ2世を王位から退けさせることです。
イングランド議会の企ては成功し、ジェームズ2世は王位から外されてしまいました。
これによりイングランドはウィリアム3世(オレンジ公ウィレム)とメアリ(メアリ2世)の統治下で治められることになります。
議会の権利や王権の制限を定めた「権利章典」が発表され、王権が制限され、立憲君主制の基礎が出来上がりました。
これが名誉革命です(1689年)
1642年の清教徒革命(ピューリタン革命)と1688年の名誉革命を併せてイギリス革命と言います。
イギリス革命によりもたらされたもの、それは
「絶対王政から立憲君主制への移行」
「議会と言う制度の確立」
「イギリスの原型が誕生した」
ことです。
その後、スチュアート朝最後の王※アン女王が亡くなりハノーヴァー朝が成立します。
アン女王の治世の時に合同法が成立し、グレートブリテン王国が誕生します(1707年)
※このアン女王も、エリザベス1世の母である侍女アンとは全く別なので注意です。
産業革命
大航海時代以降、ヨーロッパにはインドから手織りの綿織物が輸入されました。
軽さと見た目の美しさにより、ヨーロッパでは大人気商品でした。
ヨーロッパ諸国はどうにかして自国で綿織物を大量につくれまいかと考え、技術改良を進めました。
そこで発明されたものが蒸気機関です。
蒸気機関の発明により、従来手作業であったものが機械式の作業となり、作業効率は格段に上がりました。
綿織物も安く大量に生産出来るようになり、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカの三角貿易の中心となりました。
安価で大量生産を可能にさせた工場での機械式生産方法の確立を産業革命と呼びます。
イギリスから始まった産業革命は、周辺各国にも広がっていきました。
産業革命により大量生産が可能になると、多くの原料や商品を売る市場が必要になります。
そこで各国はさらに大規模な原料供給地と市場を求めて外国に目を向け始めます。
これが植民地政策であり、その標的にされたのがアジアであり日本でもあったのです。
幕末になり外国船が頻繁に日本に来航したのにはそのような背景があったのです。
産業革命がもたらしたものは、産業の近代化や技術の発展などの良い面だけではありませんでした。
例えば従来綿織物を輸出し、生計をになっていたインドですが、産業革命により逆転現象が起きます。
ヨーロッパからインドへの綿織物の逆輸入が始まり、インド古来の綿織物工業に大打撃を与えました。
インドでは多くの失業者が溢れました。
そして特筆すべきは資本主義社会の確立です。
資本主義とは、あるお金を元手に儲けを出し、利益を得ていくことです。
そしてそこには資本家(ブルジョワジー)と労働者(プロレタリアート)と言う関係が生まれます。
多くの労働者(プロレタリアート)が資本家(ブルジョワジー)から賃金を得て働き、大量生産を可能にさせて行く。
これが近代的資本主義体制の始まりです。
ここで問題になるのが貧富の差です。
資本家は利益を得て、さらに労働者を雇い大量生産を拡大して行く。
しかし、労働者の暮らしは一向に楽にはならない。
しかも当時の労働条件は劣悪であり、子供であろうが容赦なく長時間拘束され働かされました。
産業革命は多くの労働者達により支えられていたのです。
それに異を唱えたのが社会主義者のマルクスでした。
グレートブリテン王国
1603年からイングランド国王がスコットランド国王を兼ねてから、両国は連合の形を取っていました。
スチュアート朝最後の王であるアン女王の時に、合同法が発布され正式に両国は連合国家となりました。
グレートブリテン王国の誕生(1707年)
1801年にはアイルランド王国とも連合となり、グレートブリテン及びアイルランド連合王国を成立
こうしてイギリスの誕生となります。
1840年にはアヘン戦争
1863年薩英戦争
1902年に日英同盟
そして二度の大戦と、日本とイギリスは深く関わっていくことになるのです。
1922年に北アイルランドをのぞくアイルランドが独立したため、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国となり、イギリスは現在に至っています。
a