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ロシア革命と社会主義(後編)

社会主義思想の高まり

前回、ロシア革命と社会主義(前編)では、社会主義の内容についてお話ししました。
ロシア革命と社会主義(後編)では、社会主義国家の成立について見ていきたいと思います。

日々長時間労働の上、ろくに休日も取れない。
粗末な食事に長引く戦争。
しわ寄せが来るのは常に労働者や一般市民達でした。
とは言え、労働条件や環境を改善できる余地もなく、彼らには明るい未来を夢見ることすら許されなかったのです。
そのような中、現れたのが社会主義思想です。

社会主義思想に惹かれていった労働者達は、当時のマルクス主義にも影響され、国を変えようとする意識が芽生えていきます。
それがやがて革命運動につながっていくのです。

「人生を変えることが出来るかもしれない」

労働者や一般市民達にそのような夢を与えてくれたものが社会主義思想でした。

ロシア革命

ロシアは皇帝が統治する絶対王政の国家でした。
ロシアにも産業革命が起こり資本主義体制が出来つつありました。
ロシアは、諸外国と同様に植民地政策にも乗り出し、特にアジア方面に進出を試みました。

ロシアは低緯度の国なので、凍結してしまう港が多く、年間を通して使用できる不凍港の獲得を目指しました。
それが旅順や大連であり、三国干渉で日本から強制的に奪い取ったことや、果敢に南下政策を取り満州に進出しようとしたことからもうかがい知れます。
アジア進出は帝国主義政策を採るロシアにとって、悲願達成しなければならないことでした。

しかし、ロシアにとって誤算が起きます。
それが日露戦争での敗北であり、アジア進出を諦めたことです。
バルカン方面への進出へ方針変更したロシアですが、結局バルカンのいざこざ(サラエボ事件)で第一次世界大戦が発生してしまいます。

激動の大正時代大正デモクラシー ※崩御=天皇や皇后が亡くなること。 国民の怒り...

問題は、ロシア国内の労働者達の不満です。
(前編)から述べてきた通り、労働者達の不満はピークに達していました。
戦争継続反対を声高に叫び、結局の日露戦争敗戦。
数年後には第一次世界大戦へのロシアの介入。
労働者達の不満はやがて怒りに達します。

これがロシア革命の始まりです。

第一次ロシア革命

ロシア革命は長期的に見ると日露戦争最中の第一次ロシア革命(1905年)と、第一次世界大戦中の第二次ロシア革命(1917年)にわかれます。
※中学生の歴史教科書では、社会主義の革命政府が誕生した1917年をロシア革命としています。

劣悪な労働者の生活、そして日露戦争により物価の高騰に苦しむ労働者達。

労働者たちは生活の改善と日露戦争の早期終了を皇帝に直訴しました。
しかし、皇帝は話を聞くどころか、その労働者や女子供にまで銃を乱射したのです(血の日曜日事件)
これがきっかけで、国内では労働者のみならず農民達も反乱を起こします。

国王は反乱の沈静化を図るため、議会の開催や言論の自由などを認めることを約束し、反乱は収束しました。
これが第一次ロシア革命(1905年)です。

日露戦争は日本の勝利で終わりましたが、バルチック艦隊の遠路航海や日英同盟、そしてこの一次ロシア革命による国内の混乱が大きく影響しています。

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第二次ロシア革命

次にロシア国内で革命が起きたのが1917年のことです。
第二次ロシア革命と呼ばれるこの革命は、第一次世界大戦の最中に発生しました。
少し注意が必要なのは、第二次ロシア革命は、二月革命十月革命の2つにわかれていることです。
この2つをあわせて第二次ロシア革命です。

開戦当初は、ロシア国内も押せ押せムードだったようですが、長引く戦争に国内の不満が高まっていきました。

戦争により物価が高騰し、パンの値段は5倍にふくれあがり、食料を買い求める人で長蛇の列ができたのです。
戦争中止の要求とパンを求めた民衆にあろうことか銃弾を浴びせた国王軍。
民衆は革命兵士となり蜂起しました。
民衆の武装勢力の勢いに、国王ニコライ2世は退位を余儀なくされました。
1000年以上続いたロマノフ王朝の終焉でした。
第二次ロシア革命の中で、このロマノフ王朝終焉は二月革命と呼ばれます。
二月革命により倒された王朝に変わり、ロシアには臨時政府が立ち上がります。

ウラジーミル・レーニン

二月革命でロシアは王政が倒れ、ロシア共和国となります。
そこでできたのがロシア臨時政府です。

この臨時政府ですが、民衆の期待をよそに、あろうことか戦争継続を表明します。
戦争を行えば労働者階級や一般市民はさらに苦しい生活を強いられます。
しかし一方で軍需産業は儲かります。
一部の者が儲かればよいとする臨時政府のこの態度は、王政の頃と何ら変わらないものでした。

資本家(ブルジョワジー)重視の政権と見なし、この臨時政府を打倒したのが、レーニンです。
そしてこの臨時政府を打倒した戦いこそ、十月革命と呼ばれるものです。
第二次ロシア革命は二月十月革命により終了します。

レーニンの生涯

ウラジーミル・レーニンはロシアの社会主義・共産主義者でありソビエト連邦建国の父です。
ロシアの社会民主労働党(ボリシェビキと呼ばれます)の党首、指導者としてロシア革命を指導しました。
と言っても、第一次ロシア革命(1905年)時にはスイスに亡命していました。
革命参加のため一時帰国はしています。

レーニンが革命を指導したのは実質第二次ロシア革命のうち、十月革命(1917年)のことです。

レーニンは1870年にロシアのウリヤノフスク(当時はシンビルスク)に生まれました。

レーニンには教育者の父がいました。
どちらかと言えば、父は国王からも優遇され、とても革命勢力になるような家系ではありませんでした。
労働階級とも無縁であったレーニンが社会主義者となっていった経緯は、父の教育にあったようです。

何かと労働者階級や奴隷制について考える機会が多かったレーニンは、自然と社会主義思想に引き込まれていったのです。

レーニンはやがてマルクス主義(資本家階級を転覆させ、労働者階級を解放せよ)に没頭していきました。
やがて彼はペテルブルク労働者階級解放闘争同盟を結成します。
このような過激な活動を続けていく中で、レーニンは危険人物として逮捕されます(1897年)
シベリアに流刑となり、その後スイスで亡命生活を送ることになります。

レーニンがスイスで亡命生活を送っていた頃、日露戦争が勃発し、第一次ロシア革命が起こります。
それに参加するため一時帰国したことは先述した通りです。

時は流れ、第一次世界大戦が勃発、ロシア国内で第二次ロシア革命(1917年)が起こります。
二月革命により王政が倒れ、ロシア臨時政府を設立。
そして十月革命により、そのロシア臨時政府を打倒したのがレーニンです。

レーニンにより臨時政府が倒されたあと、ソビエトを権力基盤とするロシア革命政府が誕生しました。

レーニンの思想は徹底的に資本家階級(ブルジョワジー)を排除し、労働者階級(プロレタリアート)のための世の中を作ることです。
欧米列強の帝国主義政策は、植民地を求める戦いであり、まさに資本主義国家の政策です。
レーニンは帝国主義政策を断固として批判し、第一次世界大戦も帝国主義の一環であるとして批判しました。

革命政府を率いたレーニンは、帝国主義政策の戦いであると断定した第一次世界大戦からの撤退を表明しました。
即時にドイツと講和し、ロシアは第一次世界大戦から撤退します。

革命政府は次々と社会主義思想を実現させる行動を起こします。
銀行や鉄道、工場などを国有化し、土地を農民に分配しました。

国内の反革命派の鎮圧にも成功し、周辺のソビエト社会主義共和国(ベラルーシ、ウクライナ、ザカフカース)とソビエト社会主義共和国連邦を成立させました。

東西冷戦へ

こうして歴史上初の社会主義国家が誕生しました。
社会主義国家の誕生に資本主義国家陣営は大いに警戒しました。
国の政策どころか国家そのものが転覆してしまう危険な思想、それが社会主義だったのです。
ただし、物事には別の見方も存在します。
社会主義陣営にとっては、資本主義陣営こそが危険な思想の持ち主たちです。

まだ先の話になりますが、この相反した考え方が、後に東西冷戦へと世界を導いていくのです。

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