改革を制すものは江戸時代を制す(前編)
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改革を制すものは江戸時代を制す
中学歴史定期テスト対策の第30回目(前編)です。
江戸時代の諸改革です。
今回はちょっと特殊な進め方をします。
江戸時代に行われた諸改革を時系列順に説明していきます。
よって124Pから133Pまでが範囲です。
ちょ、ちょっといきなり範囲が増えたのでは!?
改革は一気にやってしまったほうが理解しやすいのです。
改革を制すものは江戸時代を制す。
江戸の諸改革をおさえておけば、江戸時代のテスト対策は怖くありません。
改革って具体的には何を行ったのですか?
財政の立て直しです。
幕府は金持ちじゃないの?
3代将軍家光の頃までは金持ちです。
しかし、貿易により金銀が海外へ流出し、国内の金銀が激減したこと。
そして明暦(めいれき)の大火と呼ばれる火事により江戸の町並みが焼き払われたこと。
そこで莫大なカネを使用したこと。
4代将軍家綱の頃からは、次第に幕府の財政は苦しくなっていったのです。
その苦しくなった財政を立て直すことが、改革だね。
江戸時代にはいくつかの改革がありますが、全ては財政の立て直しのためなんですね。
まずは、徳川綱吉の政治から見ていきましょう!
享保の改革(きょうほうのかいかく)、寛政の改革(かんせいのかいかく)、天保の改革(てんぽうのかいかく)。
これらは江戸の三大改革と呼ばれます。
他にも、幕府の財政を立て直すため、徳川綱吉、新井白石、田沼意次などが政治手腕を奮いました。
これらがどのような順番で行われ、具体的に何を行ったのか。
そこが定期テストで狙われるポイントとなります。
徳川綱吉(とくがわつなよし)と正徳の治(しょうとくのち)
徳川綱吉は、徳川幕府第5代将軍です。
綱吉が出した生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)は動物、特に「犬を大切にせよ」という命令です。
綱吉には跡継ぎの子がいなく、心配した母が占い師に相談したところ「犬を大切にすれば子を授かる」と言われたそうです。
そのことがきっかけで、綱吉は犬を大切にするようになりました。
しかし、人よりも良い物を犬に食べさせるなど、極端な犬の保護政策は批判を買いました。
綱吉は別名「犬将軍」とも呼ばれています。
綱吉は学問好きで有名な将軍でもありました。
江戸時代には儒学(じゅがく)がよく学ばれました。
綱吉は、儒学の中でも朱子学(しゅしがく)を特に重んじました。
朱子学の内容は、人を思いやる心、特に上下身分の関係に重きを置く教えでした。
朱子学は、広く民衆にまで広まりました。
どちらかと言うと、綱吉は武の人ではなく、文の人でした。
学問を愛し、国を良く治めました。
ところが、綱吉の時代から幕府の財政が極端に悪化し始めます。
原因は明暦の大火(めいれきのたいか)です。
先の将軍、第四代将軍の家綱(いえつな)の時に起きた江戸の大火事を、明暦の大火と呼びます。
この大火事により、江戸の大半が焼き尽くされました。
復興には莫大な資金を要しました。
こうした経緯から、江戸幕府の財政は次第に苦しくなっていったのです。
こうして江戸幕府は、慢性的(まんせいてき)な財政難に悩まされることになります。
その財政難に対処すべく、将軍や老中(ろうじゅう)などが行った政策こそが、江戸の諸改革なのです。
「金が足りぬなら、作れば良いではないか」by綱吉
綱吉は幕府の財政難を、貨幣(かへい)を増やすことで解決しようとしました。
足りないなら作ってしまおうという理屈です。
それってどうなるの?
物価高騰(ぶっかこうとう)インフレーションが発生します。
インフレーション?
物の価値があがり、金の価値が下がることです。
1本100円で買えていた缶ジュースが、1本200円出さないと買えなくなります。
つまり、1本のジュースの価値が上がった(物価高騰)のです。
お金を基準に考えると、お金の価値が下がったとも言えます。
これらをインフレーションと言います。
結局この綱吉の政策は大失敗に終わり、人々の生活は苦しくなりました。
第5代将軍綱吉は、貨幣の価値(質)を下げ、財政難を乗り切ろうとした。
生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)を出した。
朱子学(しゅしがく)を奨励した。
財政難の改善に失敗した綱吉。
尻拭いに登場したのが、新井白石(あらいはくせき)です。
新井白石と正徳の治(しょうとくのち)
新井白石は、第6代将軍徳川家宣(いえのぶ)に仕えた儒学者です。
新井白石の行った政治を正徳の治と言います。
一番のポイントは、綱吉が落としてしまった貨幣の価値(質)を元に戻したことです。
綱吉は、貨幣に含まれる金や銀の量を調節し、貨幣の質を落としました。
単純に貨幣を増やすために行った苦肉の策です。
当然貨幣の価値が下がり、経済は混乱します。
結局民衆の生活は苦しくなるだけでした。
新井白石は、貨幣の質を戻し、経済混乱の立て直しを図ったのです。
また、この時期に問題だったことがあります。
貿易による金銀の流出です。
日本の輸出品として金や銀が大量に外国に流れ、国内の金、銀が激減してしまったのです。
白石は、貿易にも制限をかけ、金銀の流出を抑えました。
正徳の治はうまくいったのですか?
変化が急すぎました。
今度は物の価値が下落し、お金の価値が上がったのです。
それってどうゆうこと?
年貢米を取り立てても、米の価値が安すぎるのです。
米を売ってもたいした金額にならない。
米を主たる生計にしている領主や武士は貧乏になっていきます。
な、なるほど。
正徳の治は綱吉の尻拭い。
貨幣の価値を戻そうとしました。
他には貿易を制限し、金銀の流出を防ぎました。
朝鮮国王と将軍を対等にするために、将軍を日本国王という呼び方に改めました。
朝鮮通信使の待遇を簡素化しました。
徳川吉宗と享保の改革
続いては、徳川吉宗(とくがわよしむね)第八代将軍です。
享保の改革(きょうほうのかいかく)です。
徳川吉宗は紀州藩出身の出身です。
紀州藩は、尾張藩、水戸藩とともに徳川御三家と呼ばれます。
吉宗は兄達の死や、7代将軍の急逝(きゅうせい)により、第八代将軍に就任しました。
本家でもなく、まして兄弟の多い吉宗が将軍に就く確率は限りなく低いものでした。
当時、幕府の財政難と同様に、全国の藩も苦しい財政状況でした。
紀州藩も例外ではありませんでした。
紀州藩主の吉宗は藩内の贅沢を禁じ、1日3食を1日2食に制限するなど、徹底して紀州藩の財政立て直しを図りました。
こうして見事、吉宗は紀州藩の財政を立て直したのです。
この功績が買われて、徳川吉宗は第八代将軍になったのです。
それでは、将軍になった徳川吉宗が行った改革を見ていきましょう。
享保の改革です。
質素倹約のすすめ
紀伊徳川家の財政を立て直したように、江戸に置いても家臣や町民に贅沢(ぜいたく)を慎むようすすめました。
このような、無駄遣いを減らす政策を倹約(けんやく)と言います。
目安箱(めやすばこ)
広く庶民の意見も取り入れようとした意見箱です。
吉宗は自分の周りの人間だけではなく、一般庶民の声を政治に生かそうとしました。
上げ米(あげまい)の制
1万石につき、100石の米を大名から幕府に献上させました。約1%です。
代わりに大名たちは参勤交代を軽減され、江戸に滞在する期間を1年から半年に短縮されました。
公事方御定書(くじかたおさだめがき)
江戸は人口が増え、それに伴いもめ事や事故も増えました。
それらの事件を裁く基準となる法律を定めたものです。
サツマイモの奨励
中国から琉球(沖縄)経由で鹿児島(薩摩)に伝わったイモ。
日本中が飢饉(ききん※食料不足などで人が飢え苦しむこと)に襲われたときも、薩摩藩(さつまはん)では餓死者が出ませんでした。
これは薩摩に伝わったイモ「サツマイモ」が食料とされていたからです。
稲のように穂先に実るものではなく、土の中で育つイモは害虫からの被害もなくよく育ちました。
これに目をつけた吉宗は、サツマイモの栽培を奨励しました。
百姓一揆(いっき)と打ちこわし
吉宗の改革は成功したのですか?
ある程度はです。
徹底した吉宗の倹約(けんやく)に一定の効果が得られた享保の改革。
しかし、それは米の不作と共に崩れていきます。
幕府の主な財政は年貢米収入から成り立っていました。
年貢米をカネに換え、財源にしていたのです。
つまり、米が採れなければ幕府の財政も立ち行かなくなります。
吉宗は、目安箱などを設けて広く庶民からも意見を取り入れてきました。
庶民の味方ではあったのですが、最大の弱点は米を幕府の財源にしていたことです。
米が不作の年でも、財源確保のために一定の年貢米を徴収しなければならない。
吉宗としても辛い状況だったでしょう。
当然、農民たちからは不満が生まれます。
米が不作だと米の価格があがります。
米が貴重になってくるからです。
町中では米が買えずに飢える者も出てきます。
米がないんじゃどうしようもないよな。
いえ、米はあったのです。
一部の米屋達の手元にです。
ところが彼らは、米の価値があがるのをいいことに、米の販売をストップしました。
な、なぜ?
米を欲しいという思いが強まるにつれ、米の価値があがります。
そうして米の値段を上げ、より多くの儲けを得ようとしたのです。
それはひどすぎる。
暴動が起きてしまいます。
こうして発生したのが、米屋を襲う打ちこわしです。
さらに、幕府や藩に対しても、年貢の軽減などを求め一揆(いっき)が起こりました。
これが百姓一揆(ひゃくしょういっき)です。
少し長くなりましたね。後編に続きます。