薩長同盟ぜよ
薩長同盟ぜよ
中学歴史定期テスト対策の第40回目です。
幕府の独断による開国、開国後の経済混乱。
尊王攘夷運動(そんのうじょういうんどう)が高まる中、とうとう幕府に反抗する藩が現れます。
そして第15代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は大きな決断に迫られます。
今、日本の運命が大きく変わろうとしています。
教科書は158P~159Pです。
尊王攘夷運動の高まりは、討幕の動きへと変わりました。
反幕府の勢力の中でも、特に力のあった薩摩藩と長州藩。
これら2つの藩が組したことで、幕府には対抗する手立てはなくなってしまいました。
薩摩藩と長州藩の同盟、いわゆる薩長同盟(さっちょうどうめい)が成されたのです。
薩長同盟の立役者は坂本龍馬(さかもとりょうま)です。
こうして江戸幕府は戦わずして政権を天皇に返上することになります。
約260年間続いた徳川幕府が幕を閉じました。
これを大政奉還(たいせいほうかん)と言います。
天皇を中心とする政治体制に戻す。
王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)が示され、時代は明治時代へと移っていきます。
尊王攘夷(そんのうじょうい)、そして討幕(とうばく)へ
幕府への不信感が高まり、尊王攘夷運動が激しくなっていきました。
教科書には詳しく載っていませんが、幕末の人間関係を少し説明しておきます。
まず、尊王攘夷派と開国派が激しく争っていたことはおわかりいただけたかと思います。
開国派は江戸幕府です。
ペリー来航時から一貫して、幕府は開国を貫きます。
不平等条約を朝廷の許可なしに結んでしまったことからも、コテコテの開国派だったことがわかります。
尊王攘夷(そんのうじょうい)派は山口県の長州藩などです。
長州藩は吉田松陰の松下村塾(しょうかそんじゅく)が開かれた場所であり、多くの門下生が幕末の志士として活躍しました。
長州藩の木戸孝允(きどたかよし)や高杉晋作(たかすぎしんさく)は討幕(とうばく)に情熱を注ぎました。
幕府の中にも尊王攘夷派(そんのうじょういは)の人もいました。
勝海舟(かつかいしゅう)です。
しかし、幕府の役人である勝海舟は、大々的に攘夷(じょうい)を主張できません。
攘夷とは、外国を打ち払うことです。
開国派の幕府の中にいる勝海舟は、ちょっと変わった方法で攘夷(じょうい)を推し進めます。
勝は、第14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)に海軍操練所を作ることを直訴します。
実は、勝は過去にアメリカに行ったことがありました。
日米修好通商条約の条約の文書を渡しに行くためでした(1860年)
この時、咸臨丸(かんりんまる)に乗船し、アメリカへ向かいます。
同行者には福沢諭吉(ふくざわゆきち)も同乗しています。
アメリカの進んだ文明を見た勝は、江戸幕府の役人でありながら、幕府の時代遅れぶりを痛感しました。
「勝てるわけがない」
ここはやはり幕府と同じく、開国するしかないと勝は考えます。
しかし、ここで新たな考え方が生まれます。
幕府に任せていては、日本が滅びてしまう。
勝は、そのために日本を強くしなければならないと決意します。
そこで徳川家茂に持ちかけたのが、海軍操練所を作り、日本の海軍を徹底強化することでした。
この海軍操練所に入隊し、勝の右腕として働いたのが坂本龍馬(さかもとりょうま)です。
長州藩ほど過激に幕府と外国を倒そうとしたわけではない。
それが勝や坂本龍馬達です。
いずれ外国に勝つために(攘夷)、まずは開国し、外国の技術をとりいれていこう。
これが勝海舟や坂本龍馬の考え方です。
慎重な考え方です。
ある時、長州藩は強行作戦に出ます。
天皇を味方につけ、尊王攘夷(そんのうじょうい)運動を推し進めようとしたのです。
そのため長州藩は京都の天皇御所に接近しました。
しかし、御所を守る会津藩や薩摩藩と戦い敗れ去ってしまいました。
1864年には、京都に集まる尊王攘夷派(そんのうじょういは)を取り締まるため有名な池田屋事件が起こります。
攘夷派を取りしまる新選組(しんせんぐみ)が、長州藩士が集まる池田屋を襲撃した事件です。
長州藩は、会津、薩摩に敗れ、さらに新選組にも襲撃され、天皇を味方につける作戦は失敗に終わりました。
薩摩藩は幕府よりの姿勢を見せていました。
しかし、生麦事件(なまむぎじけん)により状況が変わります。
薩摩藩士が、大名行列を横切ったイギリス人を殺害した事件を生麦事件と言います。
この生麦事件をきっかけに、薩摩藩とイギリスの間で戦争が起こります(薩英戦争)
ここで薩摩藩はなかなかの戦いぶりを見せました。
イギリスとしても、もはや幕府に力はなく、薩摩藩と仲良くした方が得策であると考えたのです。
薩摩藩は西郷隆盛(さいごうたかもり)や大久保利通(おおくぼとしみち)が実権を握り、イギリスの最新鋭の武器を入手し始めました。
京都でコテンパにやられた長州藩は、さらにイギリス、フランス、オランダ、アメリカと小競り合いを起こし、敗北します。
これを機に、長州藩は少し考え方が変わっていきます。
「外国は倒したい。しかし今は力が無い。だから今は外国と付き合い最新鋭の武器や技術を取り入れていこう。
そしていずれ幕府と外国を倒そう」とする考え方に変わっていきます。
勝海舟や坂本龍馬に似た考え方ですね。
薩摩藩も幕府に味方しながらも、幕府の力の限界は感じていました。
「幕府はもはや必要ない。」
この考え方が薩摩藩と長州藩の間で一致しました。
この2つの藩が手を組んだら幕府はひとたまりもありません。
薩摩はイギリス経由で最新鋭の武器を手に入れています。
そこに長州藩も合流したら・・・・。
幕府は恐れましたが、なかなかそう上手くいかない事情があったのです。
それは薩摩と長州が犬猿の仲だったからです。
かつて、天皇を味方につけるため、長州藩は京都御所に行きました。
しかし、会津、薩摩、新選組にコテンパにやられてしまった話を思い出してください。
これ以来、長州藩と薩摩藩は犬猿の仲だったのです。
しかし、この2つの藩が手を組まないことには幕府を倒せない。
そこで動いたのが、坂本龍馬なのです。
大政奉還(たいせいほうかん)
薩長同盟の報告を受けた幕府は、長州藩征伐を開始しました。
しかし、近代的な兵器の前になすすべはなく、幕府軍は各地で敗退しました。
薩摩藩と同盟を結んだ長州藩は、最新の武器も入手し、準備万端でしたものね。
土佐藩のススメもあり、徳川幕府は政権を天皇に返上する決意を表明します。
大政奉還(たいせいほうかん)です。
薩長同盟の前に、幕府に対抗する手段はなくなりました。
「打つ手なし」
第15代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は苦渋の決断をします。
それは260年も続いた江戸幕府を終わらせる決断でもありました。
武家による政権を終わらせ、天皇に政権を返上させる決断です。
これを大政奉還(たいせいほうかん)と言います(1867年)
鎌倉幕府、室町幕府、そして江戸幕府と続いた武士の時代に終わりが告げられた瞬間でもありました。
実はこの時、将軍の慶喜(よしのぶ)にはある思惑がありました。
それは、「長らく政治の場から遠ざかっていた朝廷には、国を統治することはできないであろう」ということです。
結局は、幕府に頼らざるを得ず、朝廷は「慶喜(よしのぶ)を頼ってくるであろう」とにらんだのです。
慶喜は、一度は政権を返上するが、すぐに武家政権を再興できると考えていたのかもしれません。
しかし、その目論見はあっさり破れてしまいます。
薩摩藩の西郷隆盛や公家(くげ)の岩倉具視(いわくらともみ)の動きが早く、まずは朝廷を動かし、天皇を中心とする政治を行うことを宣言しました。
これを王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)と言います。
さらに、徳川家の権力を弱めるため、徳川慶喜の官職や領地の返納を命じたのです。
慶喜は完全に裏をかかれた形になってしまいました。
天皇中心の政治って・・・。
なんか懐かしい感じ。
しかし、これには旧幕府側は黙っていられず、1868年兵を挙げます。
京都で旧幕府軍と新政府軍の戦いが始まりました。
鳥羽伏見(とばふしみ)の戦いです。
鳥羽伏見の戦いは、新政府軍の勝利に終わりました。
その後新政府軍は北上し、旧幕府軍に江戸城の明け渡しを命じました。
ここで無益な血を流さぬように尽力を尽くしたのが勝海舟(かつかいしゅう)です。
新政府軍は徹底攻撃をかける手はずでした。
しかし、勝は、新政府軍の西郷隆盛と交渉し、無益な攻撃をやめさせることに成功したのです。
こうして江戸城は無益な血を流すことはなく、新政府軍の手に落ちました。
新政府軍の北上は止まらず、旧幕府軍とその同盟にある藩と戦い続けました。
中でも会津藩の10代少年たちから成る白虎隊(びゃっこたい)の悲劇は有名な話です。
新政府軍と戦い、疲労を重ねた少年たちは、飯盛山の上から、炎にまかれる会津若松城を見ました。
「お城が燃えている」
会津藩の敗北を知った少年たちは、次々に自害してしまいました。
しかし、実際はお城は燃えておらず、周囲の城下町の火災だったのです。
この話は一人の生き残った少年により語り継がれました。
新政府軍の北上はとまらず、ついに北海道は函館(はこだて)の五稜郭(ごりょうかく)にまで攻め上がりました。
ここで旧幕府軍は全面降伏し、戦争は新政府軍の勝利に終わりました。
京都伏見から江戸城、会津、五稜郭。
これらの一連の戦いは戊辰戦争(ぼしんせんそう)と呼ばれます。