日本の産業革命

どのようにして、日本国内にも産業革命が始まったのか。
産業革命の結果、日本国内はどのように変わったのか。
清や朝鮮には何が起こったのか。
ここは前後関係が非常に重要です。
原因と結果の関係性をしっかり理解しましょう。
日本で産業革命が始まったきっかけ



日本では1880年代後半から、ゆるやかに産業革命が始まりました。
とは言っても、紡績業(ぼうせきぎょう)や製紙業(せいしぎょう)などの軽工業が中心でした。
ヨーロッパでは1700年代に産業革命が始まっています。
いかに日本では、産業革命が遅れて始まったかがわかると思います。
日本国内では徐々に大工場が作られ、綿糸の国内生産量が輸入量を上回りました。
そして、日本の産業革命が本格的に始まることになったきっかけが、八幡製鉄所(やはたせいてつじょ)です。
近代国家への道を歩むには、鉄鋼材が必需品でした。
建築資材のみならず近代兵器に使用される鉄鋼材。
八幡製鉄所ができるまで、日本は外国から鉄鋼材を輸入していました。
この鉄鋼材の輸入が、非常にコストがかかったのです。
しかし、八幡製鉄所で鉄鋼材を自力生産できるようになり、日本の近代化に拍車がかかります。
よって、日本の産業革命が本格的に始まったきっかけは、八幡製鉄所の完成であると言えます。
資本家と労働者

生産の元手になる資本を持つ者(資本家)が経営者になり、賃金をもらって働く者(労働者)を工場で雇って、利益の拡大を目的に、競争しながら自由に生産や取引をする仕組みを資本主義と言います。
平たく言えば、資本家(お金を持つ者)が、工場や設備を拡大し、労働者を雇い、さらに生産を拡大して利益をあげていく仕組みです。
アイデアさえあれば、どんどん利益が生まれ、資本家の富は増大していきます。
そしてさらに資本家はカネと人を投与し、利益を生みだしていきます。



本格的に産業革命が始まると、機械による大量生産が可能になります。
すると、労働者は昼夜を問わず働くことになりました。
大工場が新しく建てば、さらに労働力が必要になります。
しかし、人手不足となれば、長時間労働も当たり前の世の中になりました。
こうした背景もあり、日本は、日露戦争後に最大の絹糸輸出国となりました。
また軽工業から始まった日本の産業革命ですが、日露戦争前後には重工業も発達します。
この重工業を支えたのが、八幡製鉄所(やはたせいてつじょ)です。
発展する産業とはよそに、日本国内では深刻な労働者問題が生まれました。
資本主義経済は、多くの労働者を生みだしました。
ところが労働者の労働条件は劣悪でした。
長時間労働は当たり前、そして低賃金。
労働者の不満は高まり、労働条件を改善する運動が全国に広がりました。
それを受けて、政府は12歳未満の労働を禁止したり労働時間の制限を定めた工場法を制定しました(1911年)
しかし、労働者の暮らしや労働環境はあまり改善されませんでした。








社会主義運動と大逆事件






1910年、天皇暗殺計画を立てたとして、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)をはじめ、多くの社会主義者が逮捕されました。
そして12名が処刑されました。
これを大逆事件と言います。
現在では、ほとんどの人が無実であったとわかっています。



足尾銅山鉱毒事件

栃木県日光市に足尾銅山があります。
足尾銅山は古くから銅が採掘されてきました。
銅を精錬する際の廃ガスにより、あたりは植林が枯れ果て、ハゲ山が出没しました。
木が育たなければ地盤が緩み山崩れを起こします。
植林が枯れ果て、洪水が起こりやすくなりました。
また河川から田に流れる川水は汚染されていて稲も枯れ果ててしまいました。
川水の汚染は漁業にも深刻な問題を引き起こしました。




中華民国の成立

日露戦争の日本の勝利は、アジアの諸民族に大きな希望を与えました。
長らく欧米列強の植民地政策によって、列強の占領下にいたアジアの民族たち。
同じアジアの日本が、自力でロシアに勝利したことに大きな刺激を受けました。
「自分たちの力で、民族の独立を果たそう」
アジアの諸民族は大きな希望を持つことができました。
孫文(そんぶん)は三民主義を唱えた中国の革命家です。
※三民主義・・民族の独立、政治的民主化、民族生活の安定の3つからなる革命理論

孫文は漢民族の独立と近代国家の建設を目指し、辛亥革命(しんがいかくめい)を起こしました。
結果、清は倒れ、南京(なんきん)を首都とする中華民国(ちゅうかみんこく)が誕生しました。
中華民国は、アジアで最初の共和国です。
孫文が臨時大統領に就任しました。
ただ、孫文の臨時政府は、軍事的に弱体であったため、清政府時代の実力者袁世凱(えんせいがい)に臨時大統領の地位を譲り渡します。
袁世凱は、首都を北京(ぺきん)に移しました。



日露戦争の最中から、韓国の日本による植民地化は進みました。
対ロシアの防護壁として、朝鮮半島は非常に重要な地域でした。
しかし、日露戦争後、ロシアの対アジア方針が変更され、ロシアの脅威がなくなった後も日本の支配は続きました。
植民地支配は1945年の日本敗戦まで続いたのです。
日本は韓国の外交権を完全に奪い、韓国統監府(かんこくとうかんふ)を置きました。
初代統監は伊藤博文が就任しました。
1909年には伊藤博文が満州のハルビン駅で暗殺されてしまいました。
翌年1910年には日本は韓国を併合します(韓国併合)






