武士だってやる時はやるのよ

武士は元々、天皇の住まいを警備していた役人(武官)や、有力な豪族でした。
彼らは弓や馬術に優れた者たちであったので、役所の警備や犯罪の取り締まりを担当するようになりました。
貴族の中には自ら武士になり、自らの荘園を守る者も現れました。
地方の武士達は、貴族を主人に迎え多くの家来を引き連れ、武士団を作るほど成長していきました。
平安時代の有名な武士団は、源(みなもと)、平(たいら)、藤原(ふじわら)などの氏名(うじな)が中心でした。
武士の台頭

北関東では平将門の乱、瀬戸内海では藤原純友の乱が起こりました。
武士による朝廷に対する反乱としては非常に大きなものでした。
そして、これらの反乱を鎮圧したのも、朝廷から要請された別の武士団でした。
これまでは朝廷や貴族のボディガードであった武士達でしたが、これらの反乱をきっかけに、武士の力が一目置かれるようになります。

前九年合戦1051~1062年
教科書では合戦名しか出ませんが、簡単に内容を紹介します。
前九年合戦は、東北地方の豪族の朝廷に対する反乱を武士が鎮圧したものです。
朝廷が頼ったのは源氏でした。
朝廷は戦闘集団である武士団に頼ったのです。
朝廷から派遣された源氏は源頼義(みなもとのよりよし)、義家(よしいえ)親子です。
後に鎌倉幕府を開く源頼朝(みなもとのよりとも)の先祖です。
後三年の合戦(1083年~1087年)
これもまた東北地方を舞台に起きた事件です。
ある豪族の内乱を源氏が鎮めました。
その源氏が前九年の役の源義家(みなもとのよしいえ)です。
前九年・後三年の合戦は、東北地方や朝廷に源氏の名を大きく響かせることになります。
さらに東方地方では岩手県の平泉(ひらいずみ)を拠点に成長した奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)が力を持ちます。
西日本では平氏が力を持ち始めました。

荘園(しょうえん)と領主(りょうしゅ)


地方の武士は、地位や武力を利用し土地開発を行っていきました。
こうして新たな土地を広げていきました。
この土地を領地(りょうち)と言います。
しかし、ただ土地を広げていくと、広げた分だけ納めなければならない税も増えていきます。
そのため、武士達は領地を都の皇族や貴族、寺や神社(寺社)に寄進(寄付)したのです。
寄進を受けた皇族や貴族、寺社は領主(りょうしゅ)と呼ばれます。

墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)は743年に出された法です。
「新たに土地を開墾したものは、その土地を永久に自分の物としてよい」
と言う内容でしたね。
しかし、土地を増やせば増やすほど、税もまた増えていきます。
ここで思い出してほしいのは、貴族や寺社は税免除の優遇を受けていたことです。
そこで新たに土地を開墾したもの(Aさん)は、いったんその土地を貴族や寺社に寄進(寄付)してしまうのです。
しかし、その寄付は名ばかりです。
形上、土地を貴族や寺社の物とすることで、その土地は税免除を受けます。
しかし(Aさん)寄付は形だけですので、土地は実際は(Aさん)の物です。
(Aさん)は形上の寄進をし、税免除の恩恵を受ける代わりに、貴族や寺社に金銭を支払います。
税を納めるよりも、その金銭のほうがはるかに安いのです。
こうしてできた土地を荘園(しょうえん)と呼びましたね。


荘園の中に武士が支配する農民がいます。
農民は支配者である武士に年貢(ねんぐ)を納めます。
※年貢は米や布、絹などからなりました。
武士はさらに年貢を領主である貴族や寺社に納めます。
こうして領主は武士の荘園を保護してあげるのです。
武士は朝廷に荘園分の税を納める必要はなく、領主に年貢を納めるだけで良いということです。
