奈良から京都へ
奈良時代の天平文化は貴族と仏教を中心とした華々しい国際色豊かな文化でした。
しかし反面、朝廷が仏教に依存した政治体制により、寺院の力が増幅し、僧が政治に口を出すような混乱を招きました。
また、貴族による利益独占となる政治体制は、国家の財政を逼迫(ひっぱく)させました。
このような時代に天皇になった第50代桓武(かんむ)天皇は、仏教に依存し過ぎた政治を改めるために、ある決断をします。
それが都(みやこ)の移転です。



都を移転することを遷都(せんと)と言います。

長岡京の周囲は河川に囲まれていました。
長岡京の造りは、これらの水源を有効に活用した造りでした。
荷を運んだり、交通の手段として船が使われました。
川の流れを利用し、下水道設備も整備されていました。

平城京から長岡京への都の遷都は、多くの問題がありました。
貴族や僧たちが都の移転に強く反発したのです。
奈良から都を移すことで、自分達の有益な立場が奪われるのではと恐れたからです。
桓武天皇に長岡京への遷都を提案した藤原種次(ふじわらのたねつぐ)は、工事中に謎の死を遂げました。
遷都を良しとしない者達により、暗殺されたのです。
その暗殺犯の中に、桓武天皇の弟の早良親王(さわらしんのう)がいたと疑惑をかけられました。
早良親王は幽閉され、疑われたまま亡くなりました。
無念の死でした。
こうした中、都は長岡京に移されたのです。
ところがその後、長岡京では不吉なことが起こり始めました。
河川の氾濫による洪水や疫病により、都は甚大な被害を受けました。
人々は早良親王の祟り(たたり)だと騒ぎたてました。
こうした経緯もあり、不吉な長岡京から、また新たに都を移す計画が出されました。
それが平安京遷都です。



鳴くよウグイス平安京

平安京は、現在の京都市街に建設されました。
794年から1869年の東京都への首都移転まで、日本の政治中心地として栄えます。
桓武天皇はその地であらゆる改革を行います。
貧しい民には兵役の義務を免除しました。
唐の勢力が弱まり、東アジアへの緊張感が緩んだためです。
貧しい民は兵役の義務が解除され、口分田(くぶんでん)の耕作に集中出来るようになりました。
各国の国司へ対する監視を強化し、正しい政治を行うように力を尽くしました。
日本に新たな仏教を取り入れ、仏教と政治の癒着(ゆちゃく)を解消しようと努力しました。
また、東北にいた蝦夷(えみし)を征服し、律令国家に組み入れました。






後の将軍と呼ばれる源頼朝や、徳川家康も征夷大将軍です。
元々は蝦夷征伐のための職でしたが、その後も名前が残り、職として使用され続けていきます。
蝦夷の頭領はアテルイと言う男でした。
アテルイは蝦夷の中でとても信頼が厚く、坂上田村麻呂は、蝦夷討伐後の東北をそのままアテルイに治めさせようとしました。
しかし、それを朝廷は許さず、結局アテルイは処刑されてしまいます。





最澄と空海


















最澄は天台宗(比叡山の延暦寺)
空海は真言宗(高野山の金剛峯寺)
それぞれの広めた新しい仏教です。

平安時代の始まり
平安時代は平安遷都の794年から始まります。
鎌倉幕府成立の1192年までの約400年にも渡る長き時代です。
この時代の大きな特色は、貴族の優雅な生活と日本独特の文化の芽生えです。
そして貴族から武士中心の世の中へと変わる大きな変換期です。



