弥生時代とは




人類は、脳容積により、猿人、原人、新人に分類される。
旧石器時代とは
打製石器を使用した時代
新石器時代とは
磨製石器を使用した時代
縄文時代=新石器時代(厳密には完全にイコールではない)
縄文式土器は磨製石器に細工を施したものである。





定住が始まる。
稲作を行うため、低地河川付近に水田を造り定住が始まった。
定住が一般化すると、集団が出来、「むら」に発展した。
たて穴住居の付近には、ねずみの侵入や湿気を防ぐための高床式倉庫を建てる。

高床式倉庫には、米を蓄える。
稲作とともに、青銅器や鉄器などの金属器が伝わる。
弥生土器と言う、高温で焼くためにやや赤褐色の薄手で固めの土器が造られる。
稲を刈るための石包丁も作られる。





縄文時代の晩年に、稲作や金属器が朝鮮半島から伝わる。
低地河川の付近に水田が造られ、米を保存するため、高床式倉庫が造られる。
高温で焼かれた赤褐色固めの弥生土器が造られる。
定住化が進み、集団化が進み「むら」が造られる。
国の始まり



















東アジアとの関わり




















この当時の日本の様子は、中国の歴史書に記録が残されています。
代表的な書物と内容を見ていきましょう。
漢書(かんじょ)
紀元前1世紀頃、倭(日本)には100余りの国があり、中には定期的に漢に貢物を贈る国もありました。
後漢書」東夷伝(ごかんじょとういでん)
1世紀(西暦57年)には、倭の奴国(なのくに)の王が、後漢の皇帝に使いを送り、金印を授かりました。
※江戸時代に、現在の福岡県で、「漢倭奴国王」と刻まれた金印が発見されています。
魏志倭人伝(ぎしわじんでん)
3世紀頃、邪馬台国の卑弥呼が、魏に使いを送り、皇帝から「親魏倭王」と言う称号と金印を受けたとされています。
古来から日本と中国は密接な関わりがあります。そのため日本の歴史を学ぶにあたって、中国の歴史を学ぶことはとても重要な意味を持ちます。
別記事⇒中国の王朝を見て、日本との同年代の出来事を確認してみましょう。
邪馬台国(やまたいこく)




倭国は、元々は男の王が国を治めていたが、争いが収まらず、卑弥呼という女王を王として争いを鎮めた。
卑弥呼は鬼術(祈祷)などを用い、人とは会わず、政治は弟が担当した。
西暦239年、卑弥呼は中国の魏に使いを送り、魏皇帝から「親魏倭王」の称号を受ける。
卑弥呼の死後、再び男の王が国を治めたが、争いが増え、13歳の少女が王に立てられ、争いは収まった。




今日は弥生時代のお話しでした。
稲作が伝わり、生活スタイルが変わりました。
定住化が進み、集団化⇒「むら」⇒国と発展
小国は、強大な力に後押ししてもらうため、積極的に中国に使者を送ります。
小国はやがて、数々の大国に膨れ上がり、その中のひとつが邪馬台国です。
次回は、王を中心とする連合政権「大和政権」のお話しです。