古代~中世

弥生時代、国の始まり

弥生時代とは

奈良
さて、今日から弥生時代に入りますよ。
やよい
すごく楽しみにしてました!
やまと
燃えてきた!
奈良
縄文時代までのおさらいです。
縄文時代までのまとめ

人類は、脳容積により、猿人、原人、新人に分類される。

旧石器時代とは

打製石器を使用した時代

新石器時代とは

磨製石器を使用した時代

縄文時代=新石器時代(厳密には完全にイコールではない)

縄文式土器は磨製石器に細工を施したものである。

奈良
縄文時代の晩年に、日本史上、とても意義のある出来事が起こります。
やよい
稲作の伝来ですね。
奈良
そうです。紀元前4世紀頃(紀元前10世紀とする説もある)朝鮮半島から日本列島に移り住んだ人々から、稲作が九州北部に伝わり、やがて東北地方まで広まりました。
やまと
広まってどうなったの?
奈良
縄文時代とは全く違う生活スタイルになりました。以下の通りです。

定住が始まる。
稲作を行うため、低地河川付近に水田を造り定住が始まった。
定住が一般化すると、集団が出来、「むら」に発展した。

たて穴住居の付近には、ねずみの侵入や湿気を防ぐための高床式倉庫を建てる。

登呂遺跡の高床式倉庫

高床式倉庫には、米を蓄える。

稲作とともに、青銅器や鉄器などの金属器が伝わる。

弥生土器と言う、高温で焼くためにやや赤褐色の薄手で固めの土器が造られる。

稲を刈るための石包丁も作られる。

奈良
縄文時代は、移動型(狩り採集)の生活でしたね。
縄文時代と弥生時代が大きく異なる点は、米を蓄えることにより定住ができるようになったことです。
やよい
すごい!稲作が伝わると同時に、生活スタイルもガラッと変わったんですね。
やまと
わざわざ獲物を求めて移動しなくてよくなったから、生活もかなり楽になったんだろうね!
奈良
そうですね。
弥生時代の「むら」の遺跡に登呂(とろ)遺跡(静岡県)吉野ケ里(よしのがり)遺跡(佐賀県)があります。
吉野ケ里遺跡

縄文時代の晩年に、稲作や金属器が朝鮮半島から伝わる。
低地河川の付近に水田が造られ、米を保存するため、高床式倉庫が造られる。
高温で焼かれた赤褐色固めの弥生土器が造られる。
定住化が進み、集団化が進み「むら」が造られる。

国の始まり

奈良
さあ、いよいよヒューマンストーリーが始まります。権力の出現です。
やよい
なんだか、嬉しそうですね先生。
奈良
そうです!人間が、その本能をむき出しにし始めた時代ですから。
これこそヒューマンストーリーです!
やまと
なんか興奮してんな。先生。
奈良
稲作が普及すると、貧富の差が生まれ始めました。
それはなぜだと思いますか?
やよい
単純に、米を蓄える量が違うからだと思います。
奈良
なぜ、それほど蓄える量が変わると思います?
やよい
天候や土地の良し悪しで生産量が変わるからです。
奈良
お見事です。それから、同じ人間でも、腕力がなければ、稲作に適した土地を作ることも難しい。
病気がちな人もね。また、怠けグセがある人もいるから、自ずと米を蓄える量が変わって来てしまうのです。
やよい
縄文時代だったら分けあえていたのに。
怠けてるのはダメだと思うけど、病気の人はなんだかかわいそう。
奈良
結局、自分で生産出来ない人は、蓄えのある者に養ってもらうしかなくなります。そのようにして、ジワジワと小規模な集団が出来上がり、やがて「むら」となっていきます。
やまと
いつの時代も怠け者は大変な目にあうんだなあ。
奈良
やがて、「むら」同士も争いが始まります。川の上流に位置する「むら」が、川をせき止め、下流に位置する「むら」の水田を枯らすこともありました。
やよい
それじゃ全く米が作れない!
奈良
そうです。怒り狂った下流の「むら」は、上流の「むら」に攻撃をし始めます。
やまと
戦争だ!
奈良
こうして、集団から「むら」へ。そして、さらに膨れ上がり「国」が生まれます。
やまと
そんな昔から戦争ってあるんだ。
奈良
やがて国々には、人々を支配する有力者(豪族)や、王が現れます。

東アジアとの関わり

奈良
弥生時代の特色は、稲作や国の出現だけではありません。この時代は、東アジアとの活発な交流も見られました。
やよい
青銅器や鉄器などの金属器も伝わったんですよね。
奈良
銅剣などが作られましたね。
やまと
かっこいい!石器なんかより断然強そうだ!
奈良
他には、銅鏡や銅鐸のように、お祭りの宝物となるものもありましたよ。
やよい
稲作とか、金属器とか、進んだ技術は大陸からもたらされてきたんですね。
奈良
そうです。日本(当時は倭(わ)と呼ばれていました)は島国のため、どうしても大陸文化から一歩遅れを取ってしまうんですね。
日本が小さな国々が争っていた時、中国では強大な大国が出現していました。
やよい
日本よりずっと先に稲作が行われていたんだから、大きな国が現れるのは当然なんですね。
やまと
俺知ってる!中国を初めて統一したのは秦(しん)て国だ!
やよい
すごい!どうして知ってるの?
やまと
キングダムって漫画が面白くてさ!

やよい
ま、まんが!?
奈良
秦の始皇帝の話ですね。
先生も大好きです。そう初めて中国を統一したのが秦、そしてやがて秦が滅び、漢、後漢、三国時代(三国志の頃)と移っていきます。
日本に点在した各国は、漢や三国時代(魏)との交流なのです。
やよい
すごい!そんな大きな国と交流していたんだ!
奈良
日本の小さな国々にとって、隣の大国である中国の皇帝から国として認めてもらうことは、とても大きな意義があったのです。
やまと
そ、そんな強い国と仲が良かったら、誰も戦争なんてしかけられないもんね(ブルブル)
やよい
だから、危険な海の航海を乗り越えて、中国まで使いを送ったんですね!
奈良
小さな国が力を維持していくには、強力な後ろ盾が必要だったのです。
中国の歴史書

この当時の日本の様子は、中国の歴史書に記録が残されています。
代表的な書物と内容を見ていきましょう。

漢書(かんじょ)

紀元前1世紀頃、倭(日本)には100余りの国があり、中には定期的に漢に貢物を贈る国もありました。

後漢書」東夷伝(ごかんじょとういでん)

1世紀(西暦57年)には、倭の奴国(なのくに)の王が、後漢の皇帝に使いを送り、金印を授かりました。
※江戸時代に、現在の福岡県で、「漢倭奴国王」と刻まれた金印が発見されています。

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)

3世紀頃、邪馬台国の卑弥呼が、魏に使いを送り、皇帝から「親魏倭王」と言う称号と金印を受けたとされています。

古来から日本と中国は密接な関わりがあります。そのため日本の歴史を学ぶにあたって、中国の歴史を学ぶことはとても重要な意味を持ちます。
別記事⇒中国の王朝を見て、日本との同年代の出来事を確認してみましょう。

邪馬台国(やまたいこく)

さて、弥生時代も晩年の頃、100余りあった小国も徐々に征服と統一を繰り返し、大国が生まれました。その中のひとつが<邪馬台国です。
やまと
女王の治める国だ
やよい
卑弥呼(ひみこ)さん、どんな人だったのかしら
奈良
邪馬台国と卑弥呼に関しては、中国の歴史書魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に記述があります。
魏志倭人伝記述

倭国は、元々は男の王が国を治めていたが、争いが収まらず、卑弥呼という女王を王として争いを鎮めた。
卑弥呼は鬼術(祈祷)などを用い、人とは会わず、政治は弟が担当した。
西暦239年、卑弥呼は中国の魏に使いを送り、魏皇帝から「親魏倭王」の称号を受ける。
卑弥呼の死後、再び男の王が国を治めたが、争いが増え、13歳の少女が王に立てられ、争いは収まった。

奈良
邪馬台国の存在した場所は、近畿(奈良、大和)説と、九州説に分かれています。
やまと
ほえ~ずいぶん場所がかけ離れている。
やよい
男の王で争いが収まらないからって、女王に。さぞかし大変だったんでしょうね。卑弥呼さん。
奈良
もちろん、邪馬台国に関しては、諸説があり、今話した内容が全て真実ではないかもしれません。しかし、中学生の二人は、教科書の通り、しっかりと覚えましょう。今日はここまでです。次回は大和政権の話に進みます。

今日は弥生時代のお話しでした。
稲作が伝わり、生活スタイルが変わりました。
定住化が進み、集団化⇒「むら」⇒国と発展
小国は、強大な力に後押ししてもらうため、積極的に中国に使者を送ります。
小国はやがて、数々の大国に膨れ上がり、その中のひとつが邪馬台国です。
次回は、王を中心とする連合政権「大和政権」のお話しです。