聖武天皇
第45代の聖武天皇が治めていた8世紀前半の文化を天平文化と言います。
余談ですが聖武天皇の父は、律令国家の体制を固めた文武天皇です。
天平文化を、一言で説明するならば、貴族を中心とした仏教文化です。
天平文化は平城京を中心に花開きました。
また、そこには唐の文化の影響が強く見られます。
遣唐使、僧、留学生の往来により、多くの唐の文化が日本の生活に取り入れられていったからです。










僧の特権











仏門に生きる者に必要な戒めのことを戒律と言います。
戒律を弟子に与えられる僧は、相当な修行を積んできた(高尚な)者しかなれませんでした。
当時の日本には、戒律を与えられるほど十分な修行を行った僧はいませんでした。
そのため、勝手に僧を名乗るエセ坊主が各地に現れたのです。


鑑真(がんじん)

盲目になりながらも日本に渡航し、正しき仏教の教えを伝えました。
当時の航海は命がけです。
6度目の航海でようやく日本に到着した時には、既に両目を失明していました。
1~5回目は鑑真を慕う弟子たちに阻まれ、航海を断念したようです。
鑑真が初めて日本へ上陸したのは、1回目の試みから起算すると約10年かかっています。
日本の現状を救おうとする鑑真の覚悟は相当なものだったのです。




遣唐使と天平文化
天平文化は唐文化を色濃く受け継いだ文化です。
これは、遣唐使により日本から唐へ渡る人が増えたことや、留学生を介して唐文化が伝えられたことが要因です。
また、当時の唐はシルクロードの発終着点であり、広くアジア、ヨーロッパの文化が流入してくる地でもありました。
その結果、唐の文化に世界各国の文化も入り混じり、国際色豊かな文化が芽生えたのも天平文化の特色です。
奈良の正倉院には国際色豊かな品々が、聖武天皇の愛用品と共に保管されています。




文学作品では日本に現存する最古の和歌集である万葉集がまとめられました。712年に古事記、続いて720年には日本書紀が歴史書としてまとめられました。
その他、地方の国ごとに自然、産物、伝統を記した風土記(ふどき)もまとめられました。





天平文化と言えば、聖武天皇と仏教。
仏教の力を借りて日本を疫病や災害から守ろうとした聖武天皇。
しかし、余りにも行き過ぎた仏教保護は、ニセの僧を各地に生み出し、国分寺や国分尼寺、東大寺の大仏像の建立に、国家財政の負担が増していきました。
ここから脱仏教色の濃い時代がやってきます。
仏教の地、奈良を離れ新たな都にて新しい時代をスタートさせようとする天皇が現れたのです。
桓武(かんむ)天皇の平安遷都(せんと)です。
