律令制度の完成




律と令の法整備
和同開珎の使用
平城京の整備
公地公民の制の整備
五畿七道の整備
二官八省の整備
これらの整備により、日本が目指した律令国家は完成しました。
天皇中心による国家支配体制が出来上がったのです。




班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)







公地公民の制の下、人民は良民と奴婢(ぬひ)(奴隷)にわけられ、
6年ごとに作られる戸籍に登録されます。
戸籍に登録された全ての6歳以上男女には、身分や性別に応じて口分田(くぶんでん)が与えられます。
その人が死ぬと、口分田は国に返すことになります。これを
班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)と言います。
口分田の面積に応じて租(そ)を負担します。
※租とは収穫量の3%の稲を収める物税です。
一般の良民の成人男子は、布や特産物を都まで運んで納める調・庸(ちょう・よう)の税や、
兵役(へいえき)の義務が課されました。
租は非常時の食料として倉庫に蓄えられました。
調・庸は貴族、役人への給与や朝廷の運営費に使われました。
兵役では、唐や新羅の侵攻に備えるために、九州北部や対馬、壱岐に送られる人がいました。
これらを防人(さきもり)と呼びます。




6歳の子供が田の管理を行えるわけがありません。
しかし与えられた口分田に応じて、容赦なく租は徴収されます。
仮に父親に6歳以下の子供が4人いたとします。
その4人分の口分田の面倒を父親が見なくてはいけません。
田植えから稲刈り、日々の手入れ全てです。
しかし父親には調・庸(ちょう・よう)の義務があり、都まで税を届けなくてはなりません。
都への旅費も当然自腹です。
時には兵役の義務まであります。
「一体、誰が口分田の面倒を見るの?」
いかに庶民の負担が大きかったかお分かりいただけると思います。






墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)




開墾した田は本人が生きている間は私有出来ます。
新たに開墾すれば、その田は孫の代(三世)までの私有が認められました。
しかし、あまり効果は上がりませんでした。



新しく開墾した土地(墾田)は、口分田のように租がかかりますが、私有が永遠に認められました。
売買をすることも出来ます。
この背景には、深刻な口分田不足と、農民の開墾意欲の低下がありました。
朝廷は、開墾を進める必要性が出てきたため、墾田の永久私有を認めたのです。

荘園(しょうえん)の誕生

新たに開墾して田を作ったものは、その田を永年私有出来ると言う墾田永年私財法
聞こえは良いですが、ただの個人が、新たな田を開墾して行くのは限度がありました。
祖を納めるためには、まず口分田をしっかり耕し良い田にしなければなりません。
その他に調·庸などの義務もあり、兵役の義務もあります。
更に当時の農具もあまり良い物ではありません。
個人が新たに開墾し、田を増やして行くことは、余りにも無理があったのです。


















墾田永年私財法により、各地に私有地が増えました。私有地の管理のための事務所や倉庫は「荘(しょう)」と呼ばれました。
そのため、貴族や寺院の私有地は「荘園(しょうえん)」と呼ばれるようになったのです。