蘇我氏の独裁
























大化の改新






これらの蘇我氏による独裁政治を良しとしない勢力が現れます。
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)
です。
中大兄皇子は後の天智天皇です。
聖徳太子とは縁戚にあたります。
中臣氏は、物部氏と共に近畿地方にいた豪族です。
中臣氏は、物部氏と共に先の神道派対仏教派の戦いで蘇我氏に敗北しています。
よって、中臣鎌足にとっては、中大兄皇子を見方につけ、蘇我氏へのリベンジを果たすチャンスが到来したわけです。
ちなみに、中臣鎌足は後の藤原鎌足。
後に栄華を誇る公家藤原一族の始祖です。



蝦夷・入鹿の暗殺により、蘇我氏は滅亡することになります。
中大兄皇子らの目指したものは、聖徳太子らの志を受け継いだ
天皇中心の政治体制確立です。
天皇家の宿敵である蘇我氏を滅ぼし、天皇の力が一気に高まります。
これをきっかけに長年の憂いであった、有力豪族の弱体化を図りました。
豪族が有していた土地と人民を、国家が直接支配することに成功しました。
これを公地公民の制(こうちこうみんのせい)と言います。
蘇我氏の滅亡から、公地公民による天皇の権力強化(中央集権化)が進みます。
これら一連の動きを
大化の改新(たいかのかいしん)
と呼びます。
645年のことでした。
「大化」とは、日本で初めて定められた年号です。
律令国家への歩み









7世紀初めには、大国隋が滅び、新たに唐(とう)が中国を統一しました。

その後、唐は新羅と組み、百済を滅ぼし、強国高句麗までも滅ぼしたのです。
百済と日本はとても関係の深い国です。
その百済が滅ぼされたことで、一気に日本には緊張状態が走ることになります。


こののち、新羅は唐の勢力を追い出し、朝鮮半島を統一します。

白村江の戦いに敗れた中大兄皇子は、唐や新羅の攻撃に備えるべく、
西日本の各地に山城を築きました。
防衛の拠点となったのは、九州の大宰府(だざいふ)です。



変わりゆく都





藤原京は、中国の都にならい、道路によって碁盤の目に区画された、
日本で初めての本格的な都です。
「日本」と言う国号が使われ始めたのもこの頃と考えれれています。

