田沼の政治と寛政の改革 - 中学生のための、よくわかる歴史
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田沼の政治と寛政の改革

yamamira
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享保の改革の欠点

徳川吉宗の享保の改革により、一時的に幕府の財政は立ち直りました。

一時的ってことは、また財政は悪化したの?

庶民の声を聞いたり自ら質素倹約を行って、とても良い将軍だったと思うんですけど。
やはり簡単には行かないんですね。

私もそう思います。何が悪かったのでしょうか。
見ていきましょう。

幕府の主な財政は年貢米収入です。
他に金山や銀山からの収入などもありましたが、長年掘削され続け産出量は激減していました。

幕府は直轄地の農民から納められた米を売り、金に換えて財政を支えていました。

ところが飢饉(ききん)により米の収穫が減り、幕府の年貢収入も減ります。
しかし、幕府としては年貢米は貴重な収入源のため、可能な限り農民から年貢を徴収します。

結果、農民は非常に苦しい生活を強いられることになります。

目安箱などを設け、広く庶民からも意見を取り入れた吉宗でしたが、幕府の財源を米としている以上、年貢の取り立ては避けては通れない道だったのです。

米が不作だと、米の価格があがります。米が貴重になってくるからです。
当然多くの者が飢えてしまいます。
とうとう江戸では暴動が起こります。

暴動?

米が欲しいけど高くて買えない。
飢えに苦しむ人々が、米を高値で売るつけようとする米屋を襲ったのです。
これを打ちこわしと言います。

ちょ、ちょっと今の日本では考えられないね。

飢饉(ききん)のたびに打ちこわしが発生したら大変ですね。

その飢饉(ききん)対策のために吉宗が行ったのがサツマイモ栽培でしたね。

そうか。とりあえず他に食べる物があれば、暴動は起こらなそうだね。
多分サツマイモばかりで飽きるだろうけど・・・。\

サツマイモのおかげでかなり助けられたのですね。

食糧問題としては助かりました。
しかし、毎年安定しない米の収穫量が悩みの種でした。
幕府としては年貢米を売ることで財政をコントロールします。
政治を行う上で重要なのは、安定した金銭収入です。米の収穫量が毎年変わるとどうなるでしょうか?

毎年金銭収入が大幅に変わると思います。

それじゃ安定した政治はできないね。

金山銀山が枯れ始めてきたこの時代。
米を財源の中心に置いた幕府の財政のあり方は、もはや限界まで来ていたのです。

田沼意次(たぬまおきつぐ)の政治

吉宗の享保の改革以降、徐々に農民による一揆が増え始めました。
農民の負担は苦しくはなるが楽にはならない。
その不満が噴出し始めたのです。

農民も必死だし将軍も一生懸命だし。
どうしたらいいんだろう。

時は流れ、将軍が第九代家重(いえしげ)第十代家治(いえはる)の頃、老中の田沼意次が新たな政治の案を打ち出します。
従来の米による税収に頼らず、商業を活性化し金銭による税収を目指そうとするものでした。

案としては良いのではないでしょうか?

株仲間を覚えていますか?
田沼意次は株仲間を奨励し、彼らに特権を与える代わりに営業税を取るようになりました。

田沼意次(たぬまおきつぐ)


第九代家重(いえしげ)の頃に小姓として仕えていた田沼意次。
第十代家治(いえはる)の時に老中まで異例の出世を遂げ政治に腕を奮います。

従来の農業中心の政治体制から商業中心の政治体制へ移行を目指しました。
主な政策が株仲間の奨励
印旛沼(いんばぬま※千葉県)の干拓を行い新田開発
鉱山開発、蝦夷地(えぞち※北海道)の開発
俵物(たわらもの)の貿易※アワビなど海産物を俵に入れて輸出したもの。

田沼意次の政治により商業活動が充実し景気も上向いてきました。
しかしある問題が発生します。

やっぱりこの展開。

貨幣中心の生活になり、賄賂(わいろ)が横行するようになりました。

政治の世界はいつの時代も・・・。

地位や特権を金で買う風潮が生まれ、田沼意次は責任を問われます。
次いで1782年の天明の大飢饉と浅間山の噴火により各地で凶作。
結果百姓一揆や打ちこわしが頻発し、とうとう田沼は失職してしまいました。

でも、景気が上向くと言うことは、一定の成果があったからなのではないですか?

賄賂(わいろ)さえなければ素晴らしい政治家だったと思います。
どうしても賄賂の悪いイメージがつく田沼ですが、結果を出していますからね。
ただ、いつの世も金があるところにはどうしてもこの手の話が出てしまうものです。

寛政(かんせい)の改革

天災や打ちこわし、一揆などで荒れた江戸。
これを立て直そうとしたのが次の老中、松平定信(まつだいらさだのぶ)です。
定信の祖父は徳川吉宗です。

どのような改革だったのでしょうか?

寛政の改革


松平定信は祖父徳川吉宗の政治を理想として改革を始めました。
内容は以下の通りです。
質素倹約に努め贅沢を禁じる。
昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)を建て、学問を朱子学(儒学)のみとする。
政治批判を厳しく禁止し、出版物も厳しく統制した。
借金で苦しむ武士を助けるため、借金を帳消しにした。
※これを棄捐令(きえんれい)と呼びます。

またこれも極端な。

改革は上手くいったのですか?

極端な制限や武士びいきの改革のため、あっけなく松平定信は失職しました。
ちまたでは田沼の政治のほうが良かったと皮肉も出るほどでした。

そりゃそうだろうな・・・。

忍び寄る外国の影

さて、18世紀も後半になると、日本は国外からの脅威にも脅かされるようになります。
鎖国下の中、国内の政治だけに追われていた日本ですが、その間にも着々と諸外国は力をつけていたのです。

た、確かに。最近日本の話ばっかりだもんな。

1792年にその事件は起こりました。
ロシアの使節ラクスマンが蝦夷地の根室に来航し、日本に通商を求めてきたのです。
ラクスマンは日本人漂流者を一人連れていました。
その男の名は「大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)」です。

光太夫は船乗りでした。ある時船が漂流してしまい流れ着いたのがロシアでした。
流れ着いたのが1792年のことですので約10年間ロシアで生活していました。

幕府は突然の出来事に大いに混乱しました。
九州の長崎で交渉することを約束し、いったんロシアには引き上げてもらいました。

1804年、ロシアは長崎に来航します。使節はレザノフです。
しかし、老中松平定信は断固として拒否し、ロシアは引き上げていきます。

この後、幕府はロシアを警戒し、蝦夷地の支配に乗り出します。
また、間宮林蔵(まみやりんぞう)樺太(からふと)を探検させました。

来たるべくロシアの襲来に備えて北方の地理を把握するためです。

結果、樺太はロシアに地続きの半島ではなく、島であることが判明。
ロシアと樺太の間の海峡(かいきょう)は間宮海峡と名付けられました。

ここでロシアと国交を開いていたらどうなっていたのでしょうね。

松平定信の性格ではまず「ない」選択肢ですね。
田沼意次だったらもしかしたらありえたかもしれません。
商業優先の彼ですからね。日本の伝統よりも商業による活性化を目指したかもしれませんね。

日本しか知らないと言うのは怖いことですね。

どうしてもキリスト教を日本から弾圧したく、鎖国政策をとった日本。
結果、諸外国から限りなく遅れを取ってしまうことになりました。

その後、イギリスやアメリカも日本に近づいてくるようになりました。
イギリスの軍艦による長崎港侵入事件「フェートン号事件」

1825年にはアメリカの商船モリソン号が、日本人漂流者を送り届けに来航します。
アメリカは通商を求めましたが、幕府は異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)を出し砲撃しました。

それに対し、国内でも批判的な人間が現れます。
蘭学者の渡辺崋山(わたなべかざん)や高野長英(たかのちょうえい)は異国船打払を批判する書物を書いたために幕府に処罰されました。
「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」

さらに1830年には天保の大飢饉が日本を襲います。
多くの餓死者が出て百姓一揆や打ちこわしが多発しました。

ボロボロだな。日本。

1837年にはこの凄惨な状況を打破しようと奉行所の役人が立ち上がります。
彼は300人ほど引き連れ、大商人の家を襲い米や金を奪い、貧しい人々に分け与えようとしました。

奉行所の人がそんなことやっていいの!?

役人の反乱でしたからね。幕府は大きな衝撃を受けました。
彼の名を大塩平八郎(おおしおへいはちろう)と言います。

弱い人を助ける。しかも幕府の役人が。正義の味方ですね。

とにもかくにも国内外が大混乱だったこの時期です。
まずはこの混乱を収めなければなりませんでした。

また何かやったの?

江戸幕府最後の改革に臨みます。天保(てんぽう)の改革です。
いよいよ次からは近世~開国クライマックスに向かいます。

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ならぼん
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歴史大好き
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